<身延山>
晩年九ヶ年の歳月を送る

 

 日蓮が身延の地頭・波木井実長の館に着いたのは、文永十一年(1274)五月十七日のことである。実長は、日興の化導によって、文永の初めごろ、日蓮の門下になっていた。日蓮は、日興のすすめによって、身延に入山したのである。
 ”かりそめの庵室”ができあがったのは、入山の翌月。そこは北を身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山に囲まれ、身延川を前にした「手の広さ程の平かなる処」(新版p1466全p1078)であった。
 入山の年の十月、未曾有の国難が日本を襲う。蒙古の来襲である。
 日蓮が「立正安国論」で予言した他国侵逼難は、ついに現実のものとなった。
 怒濤の如く押し寄せる蒙古の大軍は、まず対馬、壱岐を蹂躙し、十九日には二万五千の軍勢が博多湾に上陸を敢行。日本軍は終始、劣勢となり、太宰府まで攻め込まれてしまう。
 ところが、二十日の夜、いったん船に帰った蒙古軍を、暴風雨が襲う。あるいは何らかの異変があったのか、蒙古の軍船は、急きょ撤退していったのである。
 ひとまず国難は去った。人々は安堵の胸をなでおろしたことであろう。
 草庵を出て、身延山に登ると、真正面に富士の秀麗な姿を間近に望むことができる。
 日蓮は、文永十一年から弘安五年までの足掛け九ヵ年、五十三から六十一歳までの間、この富士とともに、晩年の歳月を送ったのであった。

 

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