<桜 峠>
真心の供養尽くした南条時光

 

 日蓮の身延入山を聞いて一番喜んだのは、身延にほど近い上野郷に住む、南条時光ではなかっただろうか。
 時光の父・兵衛七郎は、文永元年以前に日蓮に帰依していたといわれている。時光の生まれは正元元年(1259)だから、五、六歳の時から、すでに手を合わせていたわけだ。兵衛七郎が亡くなった文永二年(1265)三月、日蓮は墓参のために、鎌倉から上野郷まで下向している。
 日蓮が身延へ入ったあと、時光は日興を師兄と仰ぎ、信心に励んだ。若き青年地頭として父の跡を継ぎ、一家の柱となった時光は、母の尼御前をよく助け、生活は必ずしも裕福ではなかったが、日蓮のもとへ数々の供養の品を届けている。時光が日蓮から賜った書状を見ると、主に米や麦、芋などの食糧品を供養していることが分かる。
 上野郷から身延への道は、桜峠を越える。
 精進川を渡り、上柚野から桜峠を登って、頂上近くにくると、前面に雄大な富士と、裾野に広がる上野郷が一望できる。「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり」(新版p2181全p1607)「駿河の国・富士山は広博の地なり」(新版p2182全p1607)と記した日興の言葉が脳裏をよぎる。
 時光は、後に身延を離山した日興を自領に迎え、外護の誠を貫いた。”水のごとく”清らかで、生涯たゆまぬ信仰の範を後世に示した時光と、その母・上野尼御前の人柄を思う。

 

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