<浦賀水道>
故郷に帰り小松原法難に遭遇

 

 弘長三年(1263)二月二十二日、伊豆流罪は赦免となった。翌文永元年の秋、日蓮は、実に十一年ぶりに帰郷する。
 三浦半島から、浦賀水道を渡って房総半島へ渡ると、生誕の地・小湊までは、そんなに遠くない。日蓮は、その生涯に浦賀水道を何度か渡っている。
 日蓮が生家に着いた時、母・妙蓮は危篤の床についていた。日蓮は直ちに仏天に祈る。悲母を思う日蓮の祈りは、母を蘇生させ、しかも四ヵ年の寿命を延べたのであった。
 同年十一月十一日、日蓮は、安房天津の領主・工藤吉隆の招きに応じ、吉隆の館へ向かう。吉隆は、伊豆流罪中の日蓮から「四恩抄」を賜った強信の人であった。
 一行が東条郷の松原にさしかかった時、日蓮に殺意を抱く地頭・東条景信が、凶徒を率いて襲いかかる。
 雨のように射かける矢、稲妻のようにきらめく刀と怒号のなか、日蓮を守る鏡忍房は討たれ、その他の者も深手を負う。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は乱戦の中で討ち死にし、日蓮は額を切られ、左手を折られるという重傷を負った。これが小松原の法難である。
 日蓮に切りつけた東条景信は、この時の落馬がもとで、日ならずして落命したという。
 文永元年から四年にかけて、日蓮は鎌倉を中心に、房総の地に弘教の駒を進めた。後に五老僧に加えられた日向や日頂も、このころ入門している。

 

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