<鶏頂山>
蒙古から国書到来し国中騒然

 

 文永元年(1264)から四年にかけて、日蓮は房総から常陸(茨城県)、更に下野(栃木県)方面にまで、弘教の歩みを運んだと伝えられている。
 鶏頂山は、鬼怒川流域にある藤原町北東部に位置する。このあたりは、今も日蓮に関係した伝説がいくつか残っている。
 文永五年(1268)正月十八日、中国大陸に強大な勢力を伸張していた蒙古から国書が到来。もし日本が服従しなければ、武力で討つという内容であった。
 迫りくる国難に、人々は驚き、恐怖におののく。
 四月五日、日蓮は「立正安国論御勘由来)」を著して、幕府の要職にある法鑒房に送る。安国論の他国侵逼難の予言が的中したことを通して、幕府の反省を求めたのであった。
 八月二十一日には、かつて安国論の上呈を依頼した宿屋入道に書を送り、再び安国論の内奏を要請している。
 十月十一日、日蓮は執権・北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観など、幕府の最高権力者と鎌倉仏教界の主な僧十一人に書状を送り、権力者を諫めるとともに、邪法の僧との公場対決を迫った。
 同日、日蓮は弟子・檀那に対し「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ」(新版p866全p177)と不惜身命の覚悟を促している。
 日蓮は、後に自身と門下を襲う大弾圧を、すでにこの時、予見していたのであった。

 

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