<伊 東>
日興が駆けつけ常随給仕

 

 日蓮を護送した役人が船を着けたのは、流罪地・伊東から南へ少し下った川奈の津であった。早朝、鎌倉を出発しても、川奈到着は夜になる。
 暗闇と地理不案内、更には飢えや渇きも加わったのであろうか、津に着いて苦しんでいた日蓮を助けたのが、船守弥三郎であった。弥三郎夫妻は、それから一ヵ月にわたって、日蓮の世話をする。
 このころ、伊東の領主・伊東八郎左衛門尉祐光は、重病に陥っていた。八方に手を尽くして治療を試みたが効果がなく、そこで日蓮を捜し出して、病気平癒の祈願を依頼したのである。
 病いえた祐光は、自邸近くに日蓮を迎え、帰伏した。日蓮はここで一年八ヵ月の歳月を送り、「四恩抄」「教機時国抄」「顕謗法抄(けんほうぼうしょう)」などの著述を残したのであった。
 伊東は、鎌倉から比較的近い。四条金吾をはじめ、鎌倉の弟子・信徒が訪れることも、しばしばあったことだろう。
 日蓮が駿州岩本山の一切経蔵閲覧の折に入門した日興も、日蓮流罪の報を聞いて駆けつける。日興は、この時から日蓮入滅の日まで、身に影が添うごとく、日蓮と辛苦をともにし、常随給仕の誠を尽くしたのであった。
 なだらかな伊豆の山々の向こうに富士が見える。富士は伊豆の街を静かに見守っていた。

 

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