<相模灘>
松葉ヶ谷法難に続く伊豆流罪

 

 「立正安国論」提出から、四十日が経過した文応元年(1260)八月二十七日の夜、突如、松葉ヶ谷の草庵が襲撃される。
 安国論上呈後の幕府の態度を注視していた念仏者達は、時頼が安国論を取り上げなかったことに安堵した。そこで、日蓮を亡き者にしようとして、夜討ちの暴挙に出たのであった。
 念仏者を主とする暴徒の背後には、時の執権・長時の父である極楽寺重時や、大仏朝直などの権力者がいた。
 とうてい逃げ切れないような状況のなか、日蓮はからくも難を逃れて脱出する。
下総(千葉県)の富木常忍は、草庵襲撃の知らせを聞き、急きょ、使いの者を派遣して、日蓮を葛飾郡八幡庄(市川市)の自邸に迎えたという。
 日蓮が下総に滞在中、大田乗明、秋元太郎、曽谷教信らが入信している。
 鎌倉の人々は、日蓮は亡くなったと思っていた。ところが、再び鎌倉へ戻り、弘教を開始した日蓮を見て、人々は驚き、念仏者達は激しい非難・中傷を加える。日蓮を憎悪する執権・長時は、今度は自らが命じて日蓮を捕らえ、理不尽にも伊豆への流罪を決定したのである。流罪の日は、弘長元年(1261)五月十二日であった。
 鎌倉から伊豆・伊東へ向けて、日蓮が乗船した場所は、材木座海岸の沼ヶ浦といわれている。そこから伊東まで、直線で約五十五キロ。日蓮を護送する船は、相模灘を渡っていった。

 

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