<鰍 沢>
岩本山閲蔵中に日興が入門

 

 白雪をいただく日本第一の名峰富士のふもと、岩本山実相寺に閲蔵中の日蓮に入門を請う一人の雛僧があった。名を伯耆房という。
 若年ではあったが、その優れた素質と堅固な意志を見抜いた日蓮は、入門を許す。時に正嘉二年(1258)、伯耆房、十三歳の春のことであった。
 伯耆房は、寛元四年(1246)三月八日、富士を望む甲斐の国(山梨県)巨摩郡大井荘の鰍沢生まれである。後に日蓮から白蓮阿闍梨日興の名を賜り、若き妙法弘通の闘将として、甲駿地方に教線を拡大する。日蓮の滅後は第二祖として、日蓮仏法のすべてを受け継ぎ、法華本門弘通の大導師として立つのである。
 実相寺の一切経を読破した日蓮は、いよいよ「立正安国論」の執筆にとりかかる。
 打ち続く災害の根本原因は、人々が正法である法華経をないがしろにし、仏説に背く邪法邪師を信仰するところにあった。民衆の幸福と国土の安穏は、邪宗邪義を捨てて、正法を立てる以外にない。日蓮は、もし破邪・立正がなされなければ、自界叛逆難、他国侵逼難が続いて起こるであろうことを明言している。
 このころ、すでに日昭・日朗は入門していた。四条金吾、池上宗仲といった面々も、心張りつめる思いで、安国論の完成を見守っていたに違いない。

 

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