<岩本山>
安国論執筆のため一切経を閲読

 

 日蓮が、鎌倉で弘教を開始したころ、台風、疫病、飢饉、洪水、旱魃といった天変地夭が全国に相次ぎ、人々は塗炭の苦しみにあえいでいた。
 そのありさまは「牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」(新版p24全p17)というものであった。
 人々は、神仏に救いを求め、為政者も寺社に祈祷を命じて、国土の安泰を願ったが、何の効験も現れなかったのである。
 立教開宗から四年目の正嘉元年(1257)、鎌倉は数回にわたって大地震に襲われ、壊滅的な打撃を蒙る。山は崩れ、地面が裂け、その中から青白い炎が吹き出したという。
 こうした惨状を目の当たりにした日蓮の心中には、深く期するものがあったに違いない。
 その翌年、日蓮は、駿河の岩本山実相寺にある一切経蔵に入る。それは、打ち続く災害の起因についての確証を、経文に求めるためであったと推察できる。
 岩本山実相寺は、富士のふもとにあって、富士川のほとりに立っている。
 岩本山の富士は、長い裾野を引いて空中にくっきりとそびえ立つ。日蓮は、日夜、眼前に富士を仰ぎながら、一切経を読み進んだことだろう。
 この間、日蓮は「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「守護国家論」などの書を述作したのであった。

 

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