<箱根峠>
京の比叡山へ修学の旅

 

 清澄寺の諸仏房・道善のもとに入門して四年。嘉禎三年(1237)は、日蓮出家の年であった。十六歳のこの年、日蓮は幼名の善日を是聖房蓮長と改める。
 清澄山での研学は著しく進み、清澄寺から鎌倉の諸大寺社にも何度か足を運んで、研さんを続ける。
 当時、学問の中心地は京都であり、仏教の最高学府ともいうべきは比叡山であった。そこで日蓮は、叡山での修学を決意して、二十一歳の時、叡山へと旅立つのである。
 清澄から比叡への旅は、富士を右手に望む東海道の上り旅である。
 東海道は、奈良時代以前に開かれていたが、文治元年(1185)、源頼朝が駅制を定め、京・鎌倉間を整備する。この時、芦ノ湖南岸の箱根路も、併せて改修されたのであった。
 天下の険・箱根山に官道が開かれたのは、平安時代の初め、富士の噴火による降灰で、北の足柄路が埋まったためである。
 鎌倉から京への道のりは百二十余里(約470キロ)およそ十二日の行程だ。後に箱根八里といわれた小田原から三島間は、小田原を午前六時にたつと、正午ごろ芦ノ湖畔に着く。
 旅人は額の汗をぬぐいつつ、ここから富士を仰いで一息入れたことだろう。

 

次のページ
(薩埵峠)


目次 前のページ(清澄山)