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日本の民謡 曲目解説 {九州}

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<福岡県>

  「祝いめでた」(福岡)
    《祝いめでたの 若松さまよ 枝も栄ゆりゃ 葉も繁る》
  博多を中心に、近郷の農漁村で正月や婚礼などの祝いの席で唄われてきた。
別名「博多祝い唄」「エイショーエ」。酒盛りが終わりに近づくと、最長老が
唄い始める。人々は杯を置いて、二節目ぐらいから声を合わせて唄う。唄を三
つ唄うと席を立ち、一人二人と去っていく。座開きの祝い唄は各地にあるが、
座閉じの祝い唄はみかけない。
            ○宮川  廉一COCF-6517(90) CRCM-40054(98)

  「香春(かわら)盆踊り」(福岡)
    《さあさどなたも 踊ろじゃないか 盆の供養は 踊りが供養
        香春口説きを 読み上げまする
        国は豊前の 香春の里よ 頃は戦国 天文の末
        鬼ケ城なる お城のありて いくさ語りも 数々ござる
        それが中にも 永禄四年 豊後竹田に その名も高き
        武将大友宗麟公は 鬼ケ城へと 攻め寄せなさる
        城主原田の義種公は すぐに応戦いたさんものと 出城出城の備えを固
む
        私の口説きも ほど長ければ ここらあたりで 置きまする》
  福岡市北部の田川郡香春は、日田彦山(ひたひこさん)線と並走して小倉に通
ずる香春街道の宿場町。藩政時代には番所が置かれて地方行政の中心であった。
香春岳は石灰岩の山であるため、セメント工場で有名になった。
            ○吾妻栄二郎CRCM-40006(90)

  「九州炭坑節」(福岡)
    《月が出た出た 月が出た 三池炭坑の 上に出た
        あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ》
  選炭夫たちが、単調な仕事にあきると唄った。明治の流行歌「ラッパ節」の
改良節ともいうべき新節が、大正の中頃に流行。福岡県田川郡地方にも移入さ
れて「選炭節」となった。これに大正の初め、演歌師・添田唖蝉坊が「奈良丸
くずし」に作った”月が出た出た”の歌詞が結びつき、今日の「炭坑節」とな
り、いつしか盆踊り唄となった。
            ○宮川  廉一COCF-9313(91) (廉=彦の中が兼)
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「黒田節」(福岡)
    《酒は呑め呑め 飲むならば 日本一(ひのもといち)の この槍を
        呑み取るほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士》
  黒田藩士たちが唄っていた「筑前今様」が変化したもの。今様は当世風の歌
という意味である。天正18(1583)年、福島正則は小田原城攻めの手柄として、
豊臣秀吉から名槍・日本号を贈られた。ある時、黒田藩二十五騎の一人・母里
太兵衛(もりたへい)は、福島家へ使者として出向く。かねてより、太兵衛の酒
豪ぶりを聞いていた正則は、日本号を賭けて大杯を進めたが、太兵衛は見事呑
み取った。黒田藩の者がこれを題材にして今様をつくり、藩中で愛唱したとい
う。この筑前今様の「黒田武士」を「黒田節」に変え、昭和18(1943)年、赤
坂小梅がレコードに吹き込んだ。以後、酒の席で欠かせない唄となった。
            ○鈴木  正夫VDR-25246(89)
            ◎赤坂  小梅COCJ-30340(99)

  「志賀島(しかのしま)」さのさ」(福岡)
  志賀島は、福岡県東区の西にある陸続きの島で、天明4(1784)年、漢から贈
られた「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻された金印出土の地とし
て知られる。
            ○高橋キヨ子CRCM-40054(98)

  「正調博多節」(福岡)
    《博多帯締め 筑前しぼり あゆむ姿が 柳腰》
  博多には正調博多節と博多節の二種類がある。旅芸人や門付け芸人たちが博
多に持ち込んだ”ハイ今晩は”が入る博多節は、品が悪いとされ、花柳界で嫌
われていた。大正10(1921)年頃、新たに「新博多節」を作ることになり、大
阪生まれの水茶屋のお秀が好んで唄っていた「天狗様」と呼ばれる端唄をもと
に、歌詞は福岡日日と九州日報が募集。博多節の元唄のように唄われている”
博多帯締め……”の歌詞も26文字に整理、曲名も「博多節」に対抗して「正
調博多節」とした。
            ◎赤坂  小梅COCJ-30340(99)

  「そろばん踊り(久留米機織り唄)」(福岡)
    《わたしゃ久留米の機織り娘 化粧ほんのり 花ならつぼみ
        わたしゃサイノ 久留米の日機(ひばた)織りでございますモンノ
        私がっサイ 日機ば織りよりますとサイノ 村の若い衆が来て
        遊ばんのじゃん 遊ばんのじゃんと 言いますモンノ
        一緒に遊びたいよかばってん 日機がいっちょん織れまっせんモンノ
        惚れちゃおれども まだ気が付かんかね》
「久留米機織り唄」とも呼ばれている。筑後地方は機織りが盛ん。酒席の旦那
衆が、手ぬぐいで姉さんかぶりにたすき掛けの機織り娘に扮し、両手に持った
そろばんを鳴らしながら、面白おかしく唄い踊った。民謡歌手の赤坂小梅がこ
の曲に惚れ込み、卑俗な歌詞を石本美由紀に改作してもらい、レイモンド服部
が編曲。昭和31(1956)年にレコード化した。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「筑後伊勢音頭」(福岡)
    《祝いめでたの 若松様よ 枝も栄えりゃ 葉も繁る》
 「伊勢音頭」の川崎を主体に、俗曲の数え唄「松づくし」を間にはさんでい
る。
            ○吾妻栄二郎CRCM-40054(98)

  「筑後酒造り唄」(福岡)
    《清き流れの 筑後の水で 造りあげたる 筑後酒》
  筑後市は、筑後平野の良質の米と筑後川の水に恵まれ、古くから酒造りの町
として栄えてきた。杜氏の多くは柳川の農民たちで、農閑期を利用して酒造り
に出た。この筑後の酒は、兵庫県灘の技法を取入れた関係上、酒造りの唄も灘
の影響を受けている。「酒造り唄」は、工程にしたがって各種ある。昭和35
(1960)年、NHKのど自慢全国コンクールに、同地の池口盛男がこの唄で出場。
以来、有名になった。
            ○久良木直人COCF-9313(91)
            ○西野  智泉COCJ-30340(99)

  「博多カッチリ節」(福岡)
    《言うちゃ済まんばってん 家の嬶(かか) 手利き
        夜着も布団も 三四郎さん 丸洗い》
  酒席の俗謡で幕末のはやり唄。江戸から博多に流れ込んだもの。昭和31
(1956)年、八州秀章はこの唄をもとにして江戸風に仕立てた「江戸の三四郎さ
ん」を作曲。高田浩吉が唄ってヒットした。
            ○博多新券番きみ子APCJ-5045(94)

  「博多子守唄」(福岡)
    《うちの御寮さんな がらがら柿よ 見かけよけれど 渋ござる》
  大正の初めに博多の花柳界で唄われた。大正10(1921)年ごろ、水茶屋のお
秀がレコードに吹き込む。博多港の沖仲仕たちも仕事唄として唄い、花街では
拳唄に用いられていた。女将(おかみ)さんと主人をこき下ろす歌詞が唄われる。

            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「博多どんたく」(福岡)
    《坊んち可愛い ねんねしな 品川女郎衆は 十匁
        十匁の 鉄砲玉 玉屋が可愛い すっぽんぽん》
  どんたくは、休日、安息日の意味であるオランダ語「ゾンタク」のこと。明
治30年(1897)代に大阪地方で唄われていた子守唄の節を派手にして、どんた
くの行進のときに唄われた。どんたく祭りは、かつては正月15日に行われて
いたが、現在は5月3、4日に行われている。
            ○博多新券番きみ子APCJ-5045(94)

  「博多の四季」(福岡)
    《春の博多は 東公園 十日恵比寿 引いておみくじ 大当たり
        かつぐ福笹 大判小判に 大俵》
  京の四季の替え唄。明治末期から博多の花柳界で盛んに唄われた。
            ○博多新券番きみ子APCJ-5045(94)

  「博多節」(福岡)
    《博多帯締め 筑前しぼり 筑前博多の 帯を締め 歩む姿は 柳腰
        お月さんは ちょいと出て 松の陰 ハイ今晩は》
  俗に「ハイ今晩は」と呼ばれ、山陰地方で酒席の唄として唄われていたもの。
唄い出しを取って「博多節」と呼ぶ。門付け芸人たちが、鳥取県の石見(いわ
み)地方から博多へやってきたのは江戸時代末。博多へ持ち込まれた「博多節」
は、その後、大流行して、一時は全国で愛唱されるようになった。新たに作ら
れた「正調博多節」に押されているが、曲はこちらの方がはるかに美しく、追
分調で温かみがある。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「英彦山(ひこさん)追分」(福岡)
  英彦山(1200m)は、田川郡添田町と大分県下毛郡山国町の境にあり、古くか
ら山伏の修験道の霊峰として有名。
         ○鎌田 英一CRCM-40054(98)

  「八女の茶山唄」(福岡)
    《茶山戻りにゃ 皆菅の笠 どちが姉やら 妹やら》
  八女茶の茶所・矢部村、星野村の茶摘み唄。茶畑は山に多いので茶山唄とい
う。茶選(よ)り唄や、摘んだばかりの茶の新芽を揉(も)んで煎茶を作る茶揉み
唄もある。木挽き唄が、茶摘み唄に転用された。木挽き唄は、広島木挽きが八
女に出稼ぎにきて唄っていたもの。仁安3(1168)年、栄西が宋から持ち帰った
茶の実を博多に伝えたのが日本での茶の始まりとされている。
            ○森山美智代KICH-109(96)

<佐賀県>

  「梅干し」(佐賀)
    《しわは寄れども あの梅干しは 色気離れぬ 粋(すい)なやつ》
  佐賀の代表的な酒席の唄。明治末ごろから佐賀市の花柳界で唄われた端唄調
のもの。曲名は歌詞から。上品なお色気と格調あるユーモアに、一抹の哀調を
帯びている。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「佐賀箪笥長持唄」(佐賀)
    《箪笥長持ゃ 七棹八棹 中の御衣裳は 綾錦》
  佐賀市を中心に、佐賀平野一帯、鹿島、嬉野、筑後大川あたりまで唄われて
いた。花嫁の調度品を納めた長持ちを担ぎ、婚家へ運ぶときに唄う荷担ぎ唄。
掛け合いで唄うのが本来の形。
            ○鎌田  英一CRCM-40005(90)

  「佐賀の菱売り唄」(佐賀)
            ○高橋キヨ子CRCM-40042(95)

  「千越大漁祝い唄」(佐賀)
    《御利生 御利生で 明日から大群(おおがちゃ)捕ろうよ
        これも氏神さんの 御利生かな》
  玄海の荒海で千両を越えるような大漁を祝う唄。唐津市唐房に残る唄。おお
がちゃは、大きな鯨のこと。
           ○藤堂 輝明COCF-11371(93)

  「岳の新太郎さん」(佐賀)
    《岳の新太郎さんの 下らす道は 銅(かね)の千灯篭ないとん 明かれかし
        色者の粋者で 気はざんざ》
  佐賀県南部、藤津郡太良町に地固めの唄として伝わっていた唄。囃し言葉か
ら、ザンザ節とも呼ばれる。長崎との県境にある多良岳に寺があり、今から二
百年ほど昔、新太郎という寺僧がいた。新太郎に思いを寄せた近村の娘たちは、
女人禁制の多良岳から、新太郎が下ってくるのを待ちこがれたという。その歌
詞から曲名がある。天明4(1784)年春、三重県伊勢の山田の町人・山原佳木が、
伊勢神宮の遷宮式に、氏子たちが御用材を引く「お木曳き木遣り唄」として作
曲したものが全国に広められ、各地で地固めの唄などに利用されたものが元唄。
昭和31(1956)年、初代鈴木正夫がレコードに吹き込んで、一躍、県を代表す
る唄となった。
            ○鈴木  正夫VICG-2068(91)

  「万歳くずし」(佐賀)
    《御代も栄える 千代に八千代に 万万歳の御繁盛》
  佐賀市に伝わるめでたづくしの万歳を、三味線に乗せた祝い唄。
            ○小杉真貴子VDR-25130(88)

<長崎県>

  「諌早甚句」(長崎)
    《雲か霞か 桜の花か 浮きつ沈みつ 亀の城》
  長崎県諫早市の花柳界で唄われた。江戸末期に流行した「相撲甚句」から派
生したもの。現在唄われている歌詞は、昭和9(1934)年頃、当時の市長・土橋
滝平が作詞したもの。
  早坂は高音の抜けが悪く、音域が狭いため、オーケストラ伴奏の唄にはふさ
わしくない。ローカルカラーを生かした歌唱の工夫が望まれる。
            ○早坂  光枝276A-5004(89)

  「五島さのさ」(長崎)
    《牛を買うなら 牛を買うなら 五島においで 島といえども 昔の原よ
        子牛(べこ)はほんのり 赤おびて 四つ足丈夫で 使いよい さのさ》
  長崎県福江市近郊の農家に住む老婆の記憶をもとに復元。福江は五島列島の
福江島の中心地。さのさ節は、明治32(1899)年ごろに全国的に大流行。花柳
界ではさのさ一色の時期が続いた。文政(1819-30)年間、長崎に入ってきた清
国音楽は、京都、大阪を中心にして「九連環(きゅうれんかん)」を流行させた。
江戸では「かんかんのう節」として人気を呼ぶが、こうした唄が「さのさ節」
を生み出していく。「さのさ」は、唄の終わりの囃し言葉。同系統の唄に「法
界節」や「梅が枝」などがある。
            ○高橋キヨ子CRCM-40053(98)

  「婚礼唄」(長崎)
    《長崎名所で いおうなら 祇園 清水(きよみず) 大徳寺
        沖の番所や 鉄心の 初夜の鐘ほど しっぽりと
        あれ夜明けの 松の森 異国船さえ チョイト 入り来る大湊
        あれはオランダの 船じゃぞい それもそうかいな
        実(じつ) 実々 そじゃないか》
    婚礼の儀式で、お客様を接待して騒ぐ座興の唄。七五の繰り返しで、物語
などを唄う。
            ◎愛      八VICG-60403(00)

  「散財唄」(長崎)
    《長崎名所は 有明に あの異人館
        唐に続けし テレガラフ あの熔鉄場
        港見下ろす チョイト 丸山 稲荷岳》
  遊里、花街での散財気分を表した、派手で賑やかな座敷唄。テレガラフは、
電信、電話などの通信機のこと。文久元(1861)年、我が国最初の製鉄場=熔鉄
場が長崎に造られた。
            ◎愛      八VICG-60403(00)

  「島原の子守唄」(長崎)
    《おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ
        何の梨やら 何の梨やら 色気なしばよ しょうかいな
        はよ寝ろ泣かんで おろろんばい 鬼の池 久助どんの 連れんこらすば
い》
  宮崎康平、妻城良夫作詞、宮崎康平作曲。昭和25(1950)年、目を病み、光
を失った宮崎康平は、二人の子を置いて妻に出て行かれ、失意の中、泣く子を
あやしていた。「石切り唄」に乗せて、何となく子守り唄を唄っているいうち
に、この唄が出来たという。昭和27(1952)年、九州の子守唄を取材に来てい
た菊田一夫と古関裕而がこれを聞き、昭和32(1957)年、古関裕而が編曲。島
倉千代子がレコードに吹き込む。可憐な歌唱の島倉の声とマッチして、広く知
られるようになった。
            ◎島倉千代子CF-3661(89)

  「新地節」(長崎)
    《新地しもうてから 何どんばして遊ぼ 石の砕片(くれら) どんば舟に積
む》
  長崎県北高来(たかき)郡地方の海岸埋め立て工事従事者が唄った作業唄。新
地とは、海岸や湖沼沿いの村に土俵を積んで埋め立てた新開地。この唄が残っ
ているのは中部九州の西海岸一帯で、特に長崎、佐賀両県の海岸部。江戸時代
から明治初年にかけて、干拓事業があった埋め立て地域である。発祥の地は、
大村湾、長崎県南東部・千々石(ちぢわ)の橘湾近辺との説がある。
            ○谷口のぶ子APCJ-5045(94)

  「田助ハイヤ節」(長崎)
    《はいや可愛や 今朝出た船は どこの港に 着いたやら》
  全国に分布するハイヤ節の源流となる唄。田助港は、平戸島の東北端にある
小さな港だが、帆船時代は、三方が山に囲まれた絶好の風待ち港として賑わっ
た。軒を並べ、繁盛を極めるる遊郭で生まれた酒席の騒ぎ唄。幕末には、高杉
晋作や西郷隆盛、桂小五郎といった維新の志士たちも登楼したという。
            ○小杉真喜子KICH-8205(96)

  「長崎月琴節」(長崎)
    《一日も 早く年明け 主のそば
        縞の着物に しゅすの帯 似合いましたか 見ておくれ》
  文化年間(1804-18)、清国人の金琴法が長崎に伝えた「九連環」など、月琴
の伴奏で唄われたものを総称して月琴節という。「九連環」が変化して、明治
の中頃まで長崎人によって唄われたものに「かんかんのう節」がある。
            ○高田 新司APCJ-5045(94)

  「長崎さわぎ」(長崎)
            ○高橋キヨ子CRCM-40053(98)

  「長崎のんのこ節」(長崎)
    《芝になりたや 箱根の芝に 諸国諸大名の 敷き芝に》
  長崎、諌早、大村、波佐見などから、佐賀県の鹿島、有田地方にかけて広く
分布。小皿を2枚ずつ両手に持って踊る皿踊りが付いている。江戸時代後期の
文化年間の流行歌が、この方面に定着したようであり、囃し言葉のノンノコサ
イサイは「尾鷲節」にも使われている。
            ○佐藤  松子250A-50051(89)

  「長崎浜節」(長崎)
    《浜じゃ 浜じゃ網曳く 綱を曳く 陸(おか)じゃ小娘が 袖を引く》
  この唄の原形は「住吉踊り」で、昭和初期、長崎・舞鶴座で初代中村雁治郎
が演ずる「住吉踊り」を観た丸山芸者の愛八と、郷土史家・古賀十二郎が作り
上げた。
  第122回直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」(なかにし礼著)は、愛八の生涯
を描いたものである。渡哲也と吉永小百合の主演で映画化され、平成12
(2000)年9月公開。映画化を機にビクターから昭和6(1931)年発売の愛八のS
Pレコードの復刻盤がCD発売された。「浜節」「ぶらぶら節」を初め、十曲
が収録。中に「追分」があり、父親が江差出身の漁師であったという愛八が、
七七七五の二六文字を七声七節で唄い、お座敷唄の余情を漂わせて唄っている。
歌詞は長崎の海の風景。
  岩下俊作の名作「富島松五郎伝(無法松の一生)」の主人公・松五郎は、追分
が得意であったとある。船人が唄う江差追分は各地の港に置き土産とされ、小
倉の松五郎もこれを愛唱したのである。
            ◎愛      八VICG-60403(00)

  「長崎ぶらぶら節」(長崎)
    《長崎名物 紙鳶(はた)揚げ 盆祭り
        秋は お諏訪のしゃぎりで 氏子がぶうらぶら
        ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう》
  九州西側を往来する船の寄港地・長崎丸山の花街は、いつも大変な賑わいだ
った。唄の文句にある花月は、この地方を訪れた文人墨客のほとんどが一度は
訪れるほど有名なところ。花街には、遊女を置いて客と遊ばせる貸座敷(妓楼)
と、芸者に客の話し相手をさせたり、芸を披露させたりしながら料理を食べさ
せる待ち合い(お茶屋)がある。昭和6(1931)年、丸山一の名妓で、西彼杵(そ
のぎ)郡高島町生まれの芸者・愛八が、天性の美声でレコードに吹き込み、県
を代表する唄となった。愛八は本名・松尾サダ。レコードプロデュースしたの
は西条八十(1892-1970)。大阪朝日新聞に連載中の「民謡の旅」の取材で長崎
に来た折り、花月で愛八に出会う。第122回直木賞受賞作品「長崎ぶらぶら
節」(なかにし礼著)は、この愛八と、失われ行く長崎の庶民生掘り起こしに生
涯を賭けた古賀十二郎を題材にしている。平成12(2000)年、映画化を機に、
ビクターから昭和6(1931)年発売の愛八のSPレコード復刻盤がCD発売され
た。
            ◎愛      八VICG-60403(00)
            ○赤坂  小梅COCF-9749(91)
            ○宮川  廉一COCF-9313(91)

<熊本県>

  「阿蘇の朝草切り唄」(熊本)
            ○大塚  文雄276A-5001(89)

  「五木の子守唄」(熊本)
    《おどま盆ぎり 盆ぎり 盆から先や おらんど 盆が早うくりゃ 早う戻る》
  日本を代表する子守唄。県北の球磨郡五木村は、全村が五つに分けて治めら
れていた。小作人は畑から農具までを借りて耕作し、娘は子守奉公をさせた。
昭和の初め、歌手の音丸が土地の古老・太田二一郎の唄を聞いてレコードに吹
き込む。戦後、五木にダムができたとき、各地から多くの人がこの村へ入り、
この唄に人気が集まった。花柳界でも唄われたが、昭和28(1953)年頃、山口
俊郎(1901-1981)の編曲で照菊が唄って大流行。
  照菊は野趣に富んだ唄い方をしている。成田雲竹(1888-1974)がこの唄を取
り上げるのは、、彼の民謡研究に賭ける意気込みを示すもの。
            ◎照      菊28CF-2276(88)
            ○成田  雲竹COCJ-30669(99)

  「牛深三下り」(熊本)
  《浦里や 嘆けば みどりも嘆く もらい泣きする 明け烏
        今来たニセさん よかニセさん 縞の財布を 投げ捨てて
        開けてみたれば 質屋の質札》
  「牛深ハイヤ節」の前唄として唄われ、ハイヤ節で騒ぐ前座の役割を果たす。
日本民謡の源流をなすハイヤ節の発祥地・牛深は、熊本県西部、天草下島南端
にあり、雲仙天草国立公園の一部をなしている。牛深漁港は天然の良港で、現
在も巻き網、刺し網、はえ縄による鰯(いわし)、鯵(あじ)、鯖(「さば)の漁獲
と真珠の養殖が盛んである。
  伊藤多喜雄は、北海道の民謡家・千葉勝友に師事して、唄の基本はしっかり
と身に付けた。民謡を新感覚でアレンジして全国的にライブを展開。子供から
年配者まで、これまでの民謡ファン層だけでない幅広い層にアピールしている。
            ○伊藤多喜雄32DH-5123(88)

  「牛深ハイヤ節」(熊本)
    《ハイヤで 今朝出した船は どこの港に 着いたやら》
  「天草ハイヤ節」「牛深浜唄」とも呼ばれる。長崎の「田助ハイヤ節」や
「鹿児島ハンヤ節」と同種の唄で、賑やかな騒ぎ唄。「ハイヤ節」は日本全国
の港に分布する。「追分節」「新保広大寺」と共に日本民謡の源流をなす「ハ
イヤ節」の発祥地とされる牛深は、熊本県西部、天草下島南端にあり、雲仙天
草国立公園の一部をなしている。牛深漁港は天然の良港で、現在も巻き網、刺
し網、はえ縄による鰯(いわし)、鯵(あじ)、鯖(「さば)の漁獲と真珠の養殖が
盛んである。
  伊藤多喜雄は、北海道の民謡家・千葉勝友に師事して、唄の基本はしっかり
と身に付けた。民謡を新感覚でアレンジして全国的にライブを展開。子供から
年配者まで、これまでの民謡ファン層だけでなく、幅広い層にもアピールして
いる。
            ○伊藤多喜雄32DH-544(87)

  「おてもやん」(熊本)
    《おてもやん あんたこの頃 嫁入りしたでは ないかいな
        嫁入りしたこた したばってん
        ご亭どんが ぐじゃっぺだるけん まぁだ杯ゃせんじゃった
        村役 鳶役 肝いりどん
        あん人たちの おらすけんで 後はどうなと きゃあなろたい
        川端町っぁん きゃあめぐろ
        春日 ぼうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃぁて 花盛り花盛り
        ぴーちくぱーちく ひばりの子 げんぱく茄子の いがいがどん》
  ユーモラスな熊本訛りを集めて唄う。おてもやんは十人並の不美人。熊本市
の花柳界の座敷唄として唄われてきた「本調子甚句」が熊本化したもの。この
ような方言で綴った本調子甚句は、山口県の「男なら」、高知県の「土佐なま
り」、石川県の「金沢名物」、愛知県の「名古屋甚句」などと同系統。昭和1
0(1935)年に赤坂小梅がレコード吹き込み大ヒット。以来、小梅の十八番にな
る。
            ◎赤坂  小梅COCJ-30340(99)

  「キンキラキン」(熊本)
    《肥後の刀の 下げ緒の長さ まさか違えば 玉襷》
  江戸中期、肥後藩主・細川重賢(しげかた)は、藩財政を立て直すために、厳
しい奢侈禁止令を出した。実績は上がったが、下級武士たちはそのうっぷん晴
らしの唄を唄った。キンキラキンは金綺羅錦で、豪華な着物を指す。財政再建
にあたった家老・堀平太左衛門は、がに股だったために「がねまさどんの横ば
いばい」と囃された。
            ○佐藤  松子K30X-222(87)

  「球磨の六調子」(熊本)
    《球磨で名高い 青井さんの御門 前は蓮池 桜馬場》
  熊本県南部の人吉市や、球磨川流域を占めるの球磨郡で、祝い唄と酒盛り唄
を兼ねて唄われる。曲名の由来は、三味線の三本の糸を上下往復させる奏法、
六通りある唄と踊り、雅楽の六調子によるなどといった説がある。瀬戸内海沿
岸に分布し、大分県を中心に広まった「よいやな節」が南下。球磨郡に伝わっ
た。「よいやな節」は、歌詞の終わりにヨイヤナの囃し言葉が付き、婚礼や普
請などのめでたい席で唄われる。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「豪傑節」(熊本)
    《雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂》
  歌詞は田原坂と同じだが、旧制高等学校の学生たちにもてはやされた酒宴の
唄。全国的に流行した。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「田原坂」(熊本)
    《雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂》
  熊本県西北端、鹿本郡植木町にある田原坂は、明治10(1877)年の西南の役
の激戦地である。同年2月、田原坂をはさんで薩摩軍と官軍が白兵戦を展開、
薩摩軍は敗退した。日露戦争があった明治37(1904)年、田原坂で亡くなった
人々の慰霊碑建立に際して、九州日日新聞の入江白峰が作詞、熊本大和春の芸
妓・留吉が作曲したという。熊本の花柳界では、剣舞を伴って演唱される。

            ○新熊本券番勇見APCJ-5046(94)

  「肥後土搗(つ)き唄」(熊本)
    《願うぞよ 頼むぞよ さて今日の 地固めは
        宝木山の 木を切りて 切りて倒して 浜に出す》
  櫓を組み、その真ん中に丸太を何本かの綱で釣り下げて引っ張り、掛け声と
唄と共にドスンと落として地面を固める。丸太の根本に鈴が付けてあるのは、
信仰やお洒落の意味がある。
            ◎熊谷  一峰KICH-2023(91)

  「ポンポコニャ」(熊本)
    《花の熊本 涼みがてらに 眺むれば 清水湧き出す 水前寺
        少し下れば 江津湖の舟遊び》
  明るいお座敷唄。熊本市内の花柳界で唄われた。歌詞は「花の熊本」から始
まるものがほとんどで、熊本の観光名所が織り込まれている。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

  「馬見原追分」(熊本)
    《峠三里を 馬子唄 唄うて 行けば 馬見原 花の街》
  馬見原(まみはら)は、阿蘇郡蘇陽町(そようまち)の中心部の旧名。明治の中
頃までは酒造が盛んな商業地で、日向街道の中心として賑わった。昭和25
(1950)、郷土詩人の三輪吉次郎が作詞、NKKプロデューサーの妻城良夫が作
曲。昭和29(1954)年「民謡をたずねて」で放送の後、下谷菊太郎(1916-1994)
がレコーディングして、全国的に注目されるようになった。
            ◎下谷菊太郎CF-3661(89)

  「よへほ」(熊本)
    《山鹿湯祭り 月さえおぼろ 花は夜桜 袖に散る》
  熊本県山鹿市の山鹿温泉は、奈良時代から知られた名湯。市の中心部は江戸
時代から宿場町、温泉町として発達してきた。毎年8月に行われる大宮神社の
灯篭祭は、若い娘たちが揃いの浴衣を着て、紙で作った灯篭を頭に載せ、「よ
へほ節」の踊りで町を練り歩く。よへほの意味は不明。
  小倉の名物芸者・赤坂小梅(1906-1992)は、その体格と相俟った豪快な性格
と巧みな歌唱で一世を風靡した。町田佳聲(1888-1981)の弟子である民謡研究
家・竹内勉は、小梅と同時代の鶯芸者・小唄勝太郎(1904-1974)がヤマメ、市
丸(1906-)がアユに譬えられるのに対して、小梅は大衆が好む鮭であると評し
た。なお、現在、竹内勉が編纂中の大著「民謡辞典」(三省堂から出版予定)は、
日本の民謡研究の集大成であり、これによって我が国の民謡研究は一応のピリ
オドが打たれる。
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)

<大分県>

  「臼杵(うすき)米とぎ唄」(大分)
  臼杵は、大分県東部にある臼杵市の中心地で、大友宗麟が築城した丹生(に
ぶ)島城の城下町。みそ、醤油などの醸造が盛ん。
            ○山  中  会COCF-13992(96)

  「宇目の唄げんか」(大分)
    《あんこ面(つら)見よ 目は猿まなこ 口は鰐口 閻魔顔》
  大分県南海部(あまべ)郡宇目町方面に伝わる子守り同士の喧嘩唄。掛け合い
で唄う。宇目は宮崎県境に近い山里で、裕福な農家や木内錫鉱山に働きに出る
家は、子守り娘を雇うところが多かった。夕方になると、赤子を背にした守り
娘(こ)たちが、鎮守の境内や野原などに集まり、二組に分かれて交互に唄問答
をして遊んだ。唄が詰まった方が負けで、歌詞は日頃のうっぷん晴らしが多か
った。昭和24(1949)年頃、奥宇目民俗保存会が採譜、編曲して全国に知られ
るようになった。
            ○曽我   忍、曽我  了子APCJ-5045(94)

  「久住高原(豊後追分)」(大分)
    《久住大船 朝日に映えて 駒はいななく 草千里》
  別府亀の井ホテルの初代社長・油屋熊八が、昭和2(1927)年、弁護士の山下
彬麿に依頼。山下が作詞、作曲した観光宣伝用の新民謡。久住高原は大分県中
西部にあり、久住、大船(たいせん)火山の南側に広がる高原で、肥後街道が通
る。東西20km、南北4kmの草原は採草、放牧に利用されている。
  昭和16(1941)年5月、NHK仙台放送局は、民俗学者、作曲家、歌謡文学
研究家、音楽評論家、民謡研究家、劇作家など、21人の学識権威者を招いて、
「東北民謡視聴の旅」を企画した。山下はこのときのメンバーの一人。
            ◎山下  彬麿、山下  富江VDR-25152(88)

  「コツコツ節」(大分)
    《お月さんでさえ 夜遊びなさる 年は若うて 十三七つ よしておくれよ
雲がくれ》
  大分県日田(ひた)市のお座敷唄。江戸時代、日田は天領であったため、中央
との往来もあって、風俗習慣も影響を受けた。この唄も、江戸小唄がもとにな
っていて、郷土色が乏しいが、粋な唄となっている。コツコツは、三隈川の鵜
飼い師が、鵜を励ますために舟べりをたたく音であるとか、棹が舟に当たる音
を擬したものといわれている。
            ◎赤坂  小梅COCF-9313(91)

  「関の鯛つり唄」(大分)
    《関の一本釣りゃな 高島の沖で 波にゆられて 鯛を釣るわい》
  佐賀関半島の突端にある関は、別府湾の鯛釣りで有名。「大漁節」か地引き
網の「綱曳き唄」が変化したものとされる。
  北海道函館出身の鎌田英一(1940-)は、昭和35(1960)年、初代浜田喜一に
入門。快活な海の唄を唄わせると、師匠譲りで、さすがにうまい。
            ◎鎌田  英一CRCM-40054(98)

  「鶴崎踊り」(大分)
     (猿丸太夫)
      《来ませ見せましょ 鶴崎踊り いずれ劣らぬ 花ばかり》
     (左衛門)
      《豊後鶴崎 その名も高い 踊る乙女の 姿の良さ》
  鶴崎市の盆踊り唄。福岡県直方(のおがた)市の日若踊りと共に、九州を代表
する二大盆踊りのひとつ。戦国時代、大友宗麟の家来・戸次(べっき)道雪が、
京都から招いた名妓に踊らせたのが始まりという。踊りは、ゆっくりした「猿
丸太夫」と早間の「左衛門」があり、「猿丸太夫」で進められ、終わりに「左
衛門」を一踊りして、その夜の踊りが終わる。「左衛門」は、祭文のなまり。
「猿丸太夫」は、歌人の猿丸太夫をうたった歌詞があったため。この種の唄は、
熊本・大分・宮崎の三県が接する山間部に残っており、かつてはかなり広範囲
で行われていた。猿丸太夫は、宮崎県日南市の「泰平踊り」や、岡山県真庭郡
落合町の「落合踊り」などと同系統。
            ◎鶴崎踊り保存会VICG-2068(91)
            ○丹  みどりAPCJ-5045(94)(左衛門)
            ○加藤  三治COCF-9313(91)(猿丸太夫)

  「別府流し」(大分)
    《里の名物 流しは絶えた 月もよいやさで 音頭取る》
  大分県別府市の盆踊り唄。町内を流して踊る行進踊りの「伊勢音頭」がもと
になっている。
  佐藤松子(1909-1998)は栃木県生まれ。大正13(1924)年に初舞台。以後
「島の家一座」の座長として父母と旅回りの巡業を続けた。その間に民謡だけ
でなく長唄、清元、端唄、俗曲などを修めているために、お座敷調の唄では独
特の味と渋味を出している。
            ○佐藤 松子KICH-8114(93)

  「まてつき唄」(大分)
    《嫌じゃ 嬶さん 馬刃貝(まて)突きゃ嫌じゃ 色も黒なりゃ 腰ゃかがむ》

  大分県北東部の国東(くにさき)町北江に伝わる馬刃貝漁の作業唄。北江の馬
刃貝は大きく味もよいとされるが、繁殖区域が沖合いであるため、作業は船の
上から突いて獲る。漁期は厳冬の期間であるために、寒さしのぎと威勢づけの
ために唄った。
            ○西野  智泉COCF-9313(91)

<宮崎県>

  「いもがらぼくと」(宮崎)
    《腰の痛さよ 山畑開き 春は霞の 日の長さ
        焼酎五合の 寝酒の酌に 俺も嫁女が 欲しゅなった》
  昭和30(1955)年、宮崎市の市制施行30周年記念事業として、ふるさとの
民謡が募集された。その当選歌詞を小野金次郎が標準語風に改稿し、小沢直与
志が作曲。初代鈴木正夫が唄った。いもがらぼくととは、宮崎の方言で里芋の
茎の木刀の意で、男根のことを暗喩している。
            ◎初代鈴木正夫、野崎  整子VDR-25152(88)
            ○鈴木  正夫VICG-2068(91)

  「えいこの節」(宮崎)
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「尾八重(おはえ)とめ女」(宮崎)
    《尾八重とめ女は 良いこた良いが 少し目元が 悪うござる》
  県の中央部にある児湯(こゆ)郡米良(めら)地方(現、西都市)に伝わる。尾八
重とめ女は、この地方きっての絶世の美女だった。ある時、藩主に召されて突
然、村を去ったが、村の青年たちはこれを悲しみ、せつせつたる思いで唄った
のがこの唄であるという。
  奈須美静(稔)は、宮崎県の民謡を数多く唄って、広く世に知らしめた。
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「刈干切り唄」(宮崎)
    《ここの山の 刈り干しゃ済んだよ 明日は田んぼで 稲かろかよ》
  宮崎県の北西部、西臼杵(うすき)郡高千穂町から五ケ瀬町にかけての山村で、
秋になると山に密生する萱を大鎌で刈り取り、天日に干して冬のまぐさとした。
草刈り作業に合わせて唄うのではなく、他県の草刈り唄同様、往来に牛を曵き
ながら唄う一種の「草刈り牛方唄」で、農村で唄われていた頃は、もっと素朴
なものだった。同地の佐藤明が今日の節回しに改め、広く唄われるようになっ
た。
            ○伊庭  末雄00DG-70/3(86)
            ○小川  恒男COCF-9313(91)

  「椎葉の秋節」(宮崎)
    《秋の紅葉と 十九の花は 散らせ給うな いつまでも》
  椎葉は、宮崎県北西部耳川上流域の九州山地地域を指す。東臼杵郡椎葉村は、
近世、南の米良荘(めらのしょう)と共に、人吉(ひとよし)藩相良(さがら)氏の
支配下にあった。外部との接触がほとんどない典型的な隔絶山村であった。季
節の到来を順当に迎えたい気持ちを込めて唄う唄。酒席や祝いの席、さらには
仕事唄としても唄われる。
  小島美子監修のCD「日本の民族音楽」所収。このCDには、貴重な音源が
収録されている。
            ◎椎葉サダ子KICH-2023(91)

  「椎葉の木おろし唄」(宮崎)
    《東山こうぞが 嶽なる芝ちゃうず この山は静かな 山と音に聞く》
  宮崎県の椎葉では、昭和30(1955)年ごろまで焼畑が行われてきた。焼畑の
場所は、前年に大きな木の枝を切り落としておく。長い棹を木から木へ渡して
移りながら木を切った。山の神に木を切ることを詫び、作業の安全を祈って唄
う唄。作業ごとに唄が変わった。
  小島美子監修のCD「日本の民族音楽」所収。このCDには、貴重な音源が
収録されている。
            ◎仲瀬    守KICH-2023(91)

  「椎葉の駄賃つけ節」(宮崎)
    《おどま十三から 駄賃付け習うたよ 馬の手綱で 日を暮らす》
  宮崎県の椎葉地域では、昭和の初期まで車が通れる道がなかったので、荷物
は馬の背につけて運んだ。駄賃を貰って運ぶ馬子たちの唄。朝の暗いうちから、
手にたいまつを持って、峠を越えていった。
  キングレコードから発売された「日本の民族音楽」(小島美子解説、CD1
0枚組)のうち「日本のワークソング」に収録。地味で売れないCDだろうが、
日本文化継承の好企画。コスト主義、コマーシャリズムがいかに伝統文化を破
壊し荒廃させているか、思い半ばに過ぎるものがある。
            ◎椎葉サダ子KICH-2023(91)

  「椎葉の春節」(宮崎)
    《春は花咲く 木萱も芽立つ 立たぬ名も立つ 立てらりょか》
  季節の順当な到来を祈って、正月から唄い始める。椎葉は、宮崎県北西部耳
川の上流域。東臼杵郡椎葉村は、近世、南の米良荘(めらのしょう)と共に、人
吉(ひとよし)藩相良(さがら)氏の支配下にあった。外部との接触がほとんどな
い典型的な隔絶山村であった。季節の到来を順当に迎えたい気持ちを込めて唄
う唄。酒席や祝いの席、さらには仕事唄としても唄われる。
  小島美子監修のCD「日本の民族音楽」所収。このCDには、貴重な音源が
収録されている。
            ◎中瀬    守KICH-2023(91)

  「シャンシャン馬道中唄」(宮崎)
    《鵜戸(うど)さん参りは 春三月よ 参る 参るその日が 御縁日》
 宮崎市の南部、日向灘に面した内海海から鵜戸岬までの道に七浦七坂がある。
岬の大洞窟の中にある鵜戸神宮は、漁業、航海、安産の神様として、豊玉姫命
を祀っている。この地方の花婿は、花嫁を馬の背に乗せ、鈴をしゃんしゃんと
響かせながら華やかに神宮へお参りする。昭和24(1949)5年頃、園山民平が
鵜戸地方の民謡をもとに作曲。奈須稔(美静)が歌詞を作って唄い出した。
  鹿島久美子は、かつてビクター少年民謡会に所属。澄んだきれいな声と爽や
かな民謡情緒を持っており、ローカルカラーの薄い新民謡では特にうまさを発
揮する。
            ◎鹿島久美子VICG-2068(91)
            ○森山きしのCOCF-9313(91)

  「じょうさ節」(宮崎)
    《赤江の城ケ崎ゃ 撞木の町よ 金がなければ 通られぬ》
  別名を「宮崎踊り」といって「安来節」の母体といわれている。宮崎市の赤
江は、大淀川河口南岸の地区で、江戸時代には飫肥(おび)藩と関西との連絡港
で、大正の初期ごろまで大小の船が出入りしていた。「じょうさ」は、赤江港
の城ケ崎地域のことだといわれている。「じょうさ節」は、寄港した船乗りた
ちによって各地に伝えられた。
  奈須美静(稔)は、宮崎県民謡の発掘と全国普及に努めている。
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「稗つき節」(宮崎)
    《庭の さんしゅ(山茱萸)の木 鳴る鈴 掛けて
        鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれよ》
  元久2(1205)年、平家追討のために椎葉村に入った那須大八は、鶴富姫と恋
に落ちたが、幕府の帰国命令によって悲恋に終わる。宮崎県の椎葉村には水田
を作る平地がなく、近年まで山を焼いて稗を蒔く焼畑農業が取られていた。山
の斜面に実った稗は、穂を刈り取り庭先に干す。脱穀は竪臼で杵でつく。昭和
15(1940)6年頃、悲恋伝説と、この地の稗つき節をからめた歌詞が作られた。
同村にダムが建設される際、作業に入った人々によって各地に伝えられた。昭
和28(1953)年頃から、照菊の唄で全国的に知られる。上椎葉ダムの完成は昭
和35(1960)年。地元の節回しは「早調ひえつき節」と呼ぶ。今日の「正調ひ
えつき節」は、奈須稔が唄い広めたもの。山茱萸(さんしゅゆ)は春黄金花の別
名があり、春に黄色の花が密集して咲き、この木に願い事をかけると、願いが
叶うという言い伝えがある。
            ◎奈須    稔28CF-2276(88)
            ◎赤坂  小梅COCF-9749(91)
            ○照      菊30CF-1752(87)
    「吟入り稗つき節」(宮崎)
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)
    「正調稗つき節」(宮崎)
            ◎奈須   稔COCF-9313(91)
    「早間稗つき節」(宮崎)
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「日向木挽き唄」(宮崎)
    《山で子が泣く 山師の子じゃろ ほかに泣く子が あるじゃなし》
  宮崎県は全国屈指の林業県である。木挽き職人が、鋸をひく拍子に合わせて
唄う。木挽き職人は、地元の農業の片手間に行う者と、山から山へ渡り歩く専
業の渡り木挽きがあり「木挽き唄」を各地に持ち回ったのは渡り木挽きである。
渡り木挽きは、東の南部木挽きと、西の広島木挽きが主で、これも農閑期を利
用して出稼ぐ。広島木挽きは中国、四国、九州の各地へ唄を持ち回った。いず
れも大同小異で「日向木挽き唄」は、東臼杵郡西郷村田代の奈須稔(美静)が唄
い広めた節回し。
            ◎奈須    稔K30X-222(87)

  「日向田植え唄」(宮崎)
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「日向舟漕ぎ唄」(宮崎)
            ○奈須  美静CRCM-40055(98)

  「安久(やっさ)節」(宮崎)
    《安久武士なら 尻高端折(しりゅうたこつぶ)れ
        前は泥田(むたた)で 深うござる》
  都城市中郷村地方の安久(やっさ)集落を中心に唄われている。慶長14
(1609)年、島津家久の琉球攻めに参加した安久武士が、士気を鼓舞するために
唄い出したといわれている。現在では酒席の騒ぎ唄となり、三味と太鼓で賑や
かに唄われる。「鹿児島小原節」の元唄。
            ◎谷口 くに、米丸 貴子COCF-9313(91)

  「夜神楽せり唄」(宮崎)
    《今宵 夜神楽 競ろとて 来たが 競らにゃ そこのけ わしが 競る》
            ○大場  光男APCJ-5046(94)

<鹿児島県>

  「阿久根の浜唄」(鹿児島)
            ○鎌田  英一CRCM-40053(98)

  「おはら節」(鹿児島)
    《花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島》
  花柳界の酒席の騒ぎ唄。慶長4(1599)年、宮崎県の安久(やっさ)武士が琉球
に侵攻した折り、陣中で唄い始めた「安久武士」が「安久節」になり、さらに
「ヤッサ節」になったという。それが、いつしか鹿児島市内を流れる草牟田川
(甲突川)下流の伊敷村原良(はらら)に移入され、「原良節」になった。その
「原良節」の上に小の字を加えて「小原良節」になったとの説がある。昭和の
初め、鴬芸者・新橋喜代三(1903-1963)が中山晋平(1887-1952)の紹介で上京。
この唄を唄って全国的に流行させた。喜代三は鹿児島県西之表の出身で、中山
晋平の妻となる。鹿児島の谷山市や奄美、沖縄方面に「天草」の名で「おはら
節」とそっくりのオハラハーと入る唄が伝わっている。牛深市には「神輿かつ
ぎ唄」として「おはら節」が伝わっている。
            ◎前園とみ子48CF-2420/1(88)VICG-2068(91)APCJ-5046(94)
            ○前園とみ子、江藤 春子COCF-9313(91)

  「鹿児島大津絵節」(鹿児島)
    《向こう鏡のふた取りて 写せば写る顔と顔
        そちゃ女房なぜ泣くか これが泣かずにおられようか
        早追々の呼び使い はっと答えし稲川が
        せき出る涙を押し払い 立ち上がる》
  三味線伴奏のお座敷用の俗曲。江戸時代、薩摩藩は鎖国状態にあり、江戸の
はやり唄が入りにくかった。明治になって急激に流れ込んだ唄は、たちまち県
内に広がった。
            ○石井つる子CRCM-40055(98)

  「鹿児島三下り」(鹿児島)
    《唐傘の 糸は切れても 紙ゃ破れても 通わせ給(たも)るは わしゃ嬉し》
  およそ二百年前の島津重豪(しげひさ)の時代、剛毅な薩摩気質をやわらげる
ために、上方風の文物がさかんに取り入れられた。その折り、京都から伝えら
れたといわれる。薩摩に入って、独自の撥さばきとなり、賑やかな騒ぎ唄とな
った。
            ○高橋キヨ子CRCM-40054(98)

  「鹿児島新磯節」(鹿児島)
            ○前園とみ子CRCM-40055(98)

  「鹿児島角力取り節」 (鹿児島)
    《わたしゃ谷山の 雑魚とりの娘 雑魚がとれなきゃ 喉が乾(ひ)る》
  鹿児島市内や肝属(きもつき)郡根占(ねじめ)町などで唄われる酒盛り唄。本
調子、あるいは三下りの急調子に乗せて”サーハーエー”と唄い出す。
            ○石井つる子CRCM-40055(98)

  「鹿児島浜節」(鹿児島)
    《鹿児島離れて 南へ八里 波に花咲く 吹上浜》
  鹿児島湾で艪漕ぎ唄として唄われていた。これが関西の花柳界に移されてお
座敷唄となり、大正7(1918)8年頃には、東京の花柳界でも唄われるようにな
った。こうした舟唄は鹿児島で見つからず、一説には屋久島の馬毛へ向かう船
中で、清水国友が佐渡の人から習ったとか、鹿児島の旅芸人・川西てるが作っ
たという話も残っている。
  味わい深く、情緒あふれる曲であり、格調高く唄うことが望まれる。
            ○前園とみ子APCJ-5046(94)

  「鹿児島ハンヤ節」(鹿児島)
    《ハンヤハンヤで 今朝出た船は どこの港に 着いたやら》
  天草の「ハンヤ節」が南下。阿久津、川内(せんだい)、坊津(ぼうのつ)など
の港に移入。奄美の「八月踊り」の六調子のリズムを加えてお座敷唄になった。

            ○前園とみ子、江藤 春子COCF-9313(91)CRCM-40055(98)

  「鹿児島よさこい節」(鹿児島)
    《よさこいどころか 今日このごろは 人の知らない 苦労する》
  よさこいは、夜サ来いの意で、夜に遊びに来いとの意味。鹿児島では大変に
古い唄で、労作業や田植え唄に用いられていたのが、お座敷唄に変化した。藩
政時代には「ゆっさ(戦)こい」と解して、武士たちが愛唱したという。
            ○前園とみ子、江藤 春子CRCM-40055(98)

  「串木野さのさ」(鹿児島)
    《百万の 敵に卑怯は 取らねども 串木野港を 出るときは
        思わず知らず 感激に さすがの私も ついほろり》
  串木野は鹿児島県西部の町で、江戸時代から薩摩藩が金銀を採掘していた。
通称「二上りさのさ」と呼ばれる「さのさ」が、海の作業唄になったもの。鰹
船の漁師たちが、明治以来、盛んに唄い、右舷と左舷、相呼応しながら、唄の
調子が波に乗るように唄う。
            ○鹿島久美子VDR-5193(87)

  「国分八幡鈴懸馬踊り」(鹿児島)
            ○前園とみ子CRCM-40055(98)

  「甑島(こしきじま)松坂」(鹿児島)
    《極楽の 西の御門は 鉄(くろがね)の雨戸 開くも開かぬも 胸ひとつ
        西の西方 釈迦弥陀如来 雲が邪険で拝めない》
  甑島は、鹿児島県串木野市沖にある甑島列島の総称。そこで男子十五歳の青
年入り儀式に唄われた。伊勢から伝わったとか、平家の落人が持ち込んだとの
説があり、隠れ一向宗の影響で、宗教的な歌詞が多い。
            ○地  蔵  伝CRCM-40055(98)

  「知覧節」(鹿児島)
    《大隣岳から 下原見れば 唐種大根葉が 今 生(お)立つ》
  知覧町は薩摩の小京都と呼ばれ、菜種、知覧茶の産地としても有名。昭和3
0(1955)年ごろ、木原喜一が発掘と考証に努め、すたれかかっていたこの唄を
世に出した。
            ○福永  幸雄CRCM-40055(98)
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