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日本の民謡 曲目解説<宮城県> あ〜し
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  「秋の山唄」(宮城)
    《奥州涌谷(わくや)の 箆岳(ののだけ)さまは
      山子(やまご)繁盛の 守り神》
  夏の朝、まだ暗いうちから近くの山で草を刈り、刈った草を馬の背に積んで
戻ってくる。その往来に唄った。後藤桃水(1880-1960)は、これまで「草刈り
唄」と呼ばれていた「山甚句」を、昭和17(1942)8年頃に「秋の山唄」と改
名。本来は、秋の雑木伐りの時に唄う「木伐り唄」で、仙台の北、宮城、黒川、
桃生(ものう)郡あたりで広く唄われていた。
  鈴木茂のCDでは、平成12(2000)年5月、若くして逝った米谷威和男が尺
八の伴奏をしている。米谷は、三味線の藤本●丈(ひでお)の愛弟子。妻である
小杉真貴子と共に、日本民謡の興隆、普及に大きく貢献した。
            ◎芳村  君男00DG-70/3(86)
            ○熊谷  一夫COCF-9305(91)
            ○鈴木    茂VICG-2062(91)
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  「石投げ甚句」(宮城)
    《船は出て行く朝日は昇る 鴎飛び立つ 賑やかさ》
  県南部の伊具や亘理(わたり)方面で広く唄われている酒席の騒ぎ唄。福島県
の相馬地方と接する亘理郡山元(やまもと)町一帯の、太平洋に面した笠浜の漁
師たちが唄う。これは県の海岸部一帯で唄われる「浜甚句」の一種で、「遠島
(としま)甚句」とは兄弟の関係。土地では「笠浜甚句」と呼び、網の中に魚を
追い込むときに小石を投げながら唄うところから名がある。「帆走り甚句」と
もいう。
            ○小野田 実COCJ-30336(99)
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  「石巻茶摘唄」(宮城)
    《港牧山 よい茶の出どこ 娘やりたい お茶摘みに》
            ○高橋 桃川APCJ-5035(94)
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  「石巻船頭唄」(宮城)
            ○熊谷 一夫COCF-10446(92)
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  「稲上げ唄(ザラントショウ)」(宮城)
    《今夜ここに寝て あすの晩は何処よ あすは田の中 あぜ枕》
  畔打ち唄に始まり、種おろし祝い唄、田植え唄、田の草取り唄と、米作りの
作業が進むにつれて、いろんな唄が唄われる。馬の背に稲束を積んで戻る道す
がら、ザランザランと揺れる稲穂の音が曲名になっている。仙台郊外で草刈り
の往来の際、馬に乗りながら、あるいは引きながら口ずさんでいた「山唄」の
節をもとに、昭和14(1939)5年頃、後藤桃水(1880-1960)が曲を工夫。山形
県鶴岡市の民謡研究家・浦本政三郎が歌詞を作る。唄の母体である「山唄」は、
一時、かなり広く唄われていたらしく、茨城県下でも聞くことができる。
  遅めのテンポで格調高く唄う佐藤寛一がよい。
            ◎佐々木  央CF-3457(89)
            ◎佐藤  寛一COCF-6547(90)
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  「えんころ節」(宮城)
    《まず今日の お祝いに めでためでたの お酒盛り
      お酒の肴を 見申せば 鯛やほうぼう 金頭(かながしら)
      金の杯 七つ組 長柄の銚子に 泉酒
      奥の掛け軸 見申せば さても見事な 大漁船
      金の帆柱 銀の綱 大黒様が 舵を取り
      お恵比寿様が 舞い遊ぶ 舳先にゃ 船神大明神
      綾と錦の 帆を巻いて 宝を俵に 積み重ね
      これの館に 走り込む》
  唄の終わりにエンコロ、エンコロの囃し言葉が付く。新造船の船おろしの祝
い唄。正月2日の仕事初めに、網元の所へ集まる時にも唄われる。土地によっ
て少しずつ節回しが異なり、今日一般に唄われているのは松島湾あたりのもの
である。九州方面の祝い唄「よいやな」が北上、各地の港で新造船の祝い唄と
して広く唄われている。四国でエイコノエイコノと囃すところでは「エイコノ
節」と呼んでいる。伊豆半島の漁師は「エンコロエンコロ」と囃し、三浦三崎
でもこの種の「エンコロ節」が唄われているが、こうしたものが宮城県下へ移
入されたものか。
 民謡にとっては、美声や巧みな節回しより、品位と素朴で敬虔な気持ちの表
現が大切。赤間政夫(1905-1982)の歌唱が極め付けで、オーケストラ伴奏で唄
う若き吉沢浩もよかったが、ともにCDが見当たらない。
            ○熊谷  一夫CF-3457(89)
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  「おいとこ節」(宮城)
    《おいとこそうだよ 紺の暖簾に 伊勢屋と書いたよ
      お梅女郎衆は 十代伝わる 粉屋の娘だよ
      あの娘はよい娘だ あの娘と添うなら 三年三月も
      裸で茨も背負いましょ 水もくみましょ 手鍋もさげましょ
      なるたけ朝は早起き 上る東海道は 五十と三次
      粉箱やっこらさと担いで 歩かにゃなるまい》
  俗曲「おいとこそうだよ」は、千葉県山武(さんぶ)郡白桝(しらます)にある
粉屋の娘・木俣お小夜を唄った「白桝粉屋」と呼ばれる「小念仏踊り」の演目
が母体。江戸末の天保(1830-43)の頃、関東・東北を中心として広く唄われた。
明治末から大正にかけて東京で再流行。その後すっかり忘れられ、宮城県だけ
に残っていた。「小念仏踊り」は「万作踊り」とも呼ばれ、東関東で大師講が
開かれると、余興踊りとして唄い踊られていた。それが次第に農民芸として発
達。農閑期を利用して巡業に回る人たちも現れ大流行。県下にも移入され、酒
席の踊り唄として盛んに唄い踊られた。女性よりも、男性が唄うほうが心地よ
く聴ける。
            ○加賀  徳子COCF-9305(91)
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  「お立ち酒」(宮城)
    《お前お立ちか お名残惜しい 名残情けの くくみ酒》
  黒川郡一帯では、婚礼の折りに嫁や婿に付き添ってきた客が帰る時や、門口
や庭先で酒を飲み干す時、居合わせた人達が斉唱する。今日では婚礼だけでな
く、祝いの席の納めの杯の際にも唄われている。杯納めの唄は宮城県にあるだ
けで、同系の唄は他県に見あたらない。曲の感じから、江戸時代末期の流行歌
か、都の唄がたまたま黒川地方に定着したのではないかとされている。当代の
人気歌手がこぞって唄っているが、美声に頼り、技巧に凝って唄うために、情
感に乏しく、きれいごとに終わっている唄が多い。
            ◎芳村  君男00DG-70/3(86)
            ◎加賀  徳子COCF-9305(91)
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  「小野田甚句」(宮城)
    《さあさ でたでた 唐(もろこし)船よ 波に揺られて 岸に寄る》
  藩政時代の宿場町・加美郡小野田町の酒席の騒ぎ唄。小野田町は、古くから
馬の産地として知られ、馬市が開かれて諸国から博労たちが集まった。塩釜や
石巻の遊郭で唄われた甚句が、この地に持ち込まれて変化した。
            ○熊谷  一夫COCF-10446(92)
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  「北上川船頭唄」(宮城)
    《主の船唄 夜ごとに聞けば 共に暮らすは いつじゃやら》
  石巻は北上川河口に発展した町で、藩政時代は、江戸の米の需要をまかなっ
た仙台米の積み出し港であった。この石巻市を中心に、北上川流域の人々が鮭
漁に唄ったともいわれ、「北上流し網唄」とも呼ばれる。
            ○近藤 恵子APCJ-5035(94)
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  「きのこ採り唄」(宮城)
    《奥州仙台領に 良い木がござる 欅(いたや)楢(なら)の木 桂の木》
            ○佐藤  寛一COCJ-30336(99)
            ○三浦かしくCRCM-10018(98)
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  「御祝(ごいわい)」(宮城)
    《お祝いごとは 繁ければ おつぼの松も そよめく》
            ○鎌田  英一CRCM-40004(90)
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  「米 節」(宮城)
    《米という字を 分析すれば 八十八度の 手がかかる
      お米一粒 粗末にゃならぬ 米はわれらの 親じゃもの》
  藤田まさと作詞、大村能章作曲の「博多小女郎浪枕」のメロディーをそのま
ま使用した替え唄。昭和10(1935)年、尺八家の星天●(日の下に辰)が、米を
称える祝い唄風の歌詞をはめ込んだ。
            ○鹿島久美子VDR-25127(88)
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  「斉太郎節(大漁唄い込み)」(宮城)
    《松島の 瑞巌寺ほどの 寺もない》
  岩手県の「気仙坂」が変化したもの。松島沿岸の漁師たちが鰹漁に出る折り、
海の神に大漁を願って唄う。大漁の際には湾内に漕ぎ戻る時に唄った。歳徳神
を祭る祝い唄として用いられる「サイトクシン節」が「サイタラ節」になり、
「サイタラ」がストライキを指導した銭吹き職人・斉太郎の伝説と結び付いて
「斉太郎節」になる。昭和の初め、「東北民謡の父」と称された後藤桃水
(1880-1960)が、桃生(ものう)郡雄勝(おがつ)町の漁師が唄う「斉太郎節」を
聴いて唄を工夫。前唄に祭文部分の「どや節」、後唄に「遠島(としま)甚句」
を付けて「大漁唄い込み」とした。昭和6(1931)年、NHK仙台局の開局記念
に八木寿水の唄、赤間政夫と松元木兆のかけ声で発表。昭和28(1953)年、N
HKのど自慢全国コンクールで、桃水門下の我妻桃也が、八木寿水と赤間政夫
のかけ声で唄い優勝する。それ以後、日本の海を代表する唄となった。
  昭和30(1955)年代後半から始まった高度経済成長期に、その労働力を担っ
た地方出身の若者達の心を捉えたのは、三橋美智也(1930-1996)の澄んだ高音
と絶妙の小節で唄われる歌謡曲と民謡であった。三橋の歌には郷愁があり、望
郷の念をかきたてる。この唄も、山口俊郎(1901-1981)の編曲により、男声コ
ーラスをバックにオーケストラ伴奏で唄う三橋の唄が人気を呼んだ。「どや節」
を入れた赤間政夫(1905-1982)の「大漁唄い込み」がCD化されていないのが
惜しまれる。
            ◎三橋美智也KICX-8412(97)
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  「嵯峨立甚句」(宮城)
    《唄いなされや 声張り上げて 唄は仕事の 弾みもの》
  登米(とめ)郡錦織(にしこおり)村(現・東和町)の一村落・嵯峨立は北上川の
港町。出船、入船でおおいに賑わった。北西から吹き降ろす風を”さが”と呼
び、帆船はさがが立つ日に出港していった。船乗りたちが、塩釜や石巻の甚句
を持ち込んだもの。
            ○三浦かしくCF-3457(89)
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  「さんさ時雨」(宮城)
    《さんさ時雨か 萱野の雨か 音もせできて 濡れかかる》
  仙台を中心に、北は岩手県水沢市、東は山形県東部、南は福島県相馬から会
津地方にまで唄われている。日本民謡のなかで、最も格調の高い唄のひとつ。
山形県下では「ショオガイナ」、福島県会津地方では「会津目出度」の名で呼
ばれている。天正17(1589)年6月、伊達政宗は会津の蘆名(あしな)義広と猪
苗代湖の近く摺上原で戦った。その折り、伊達一族の亘理五郎重宗が露営のつ
れづれに”音もせで 茅野の夜の時雨きて 袖にさんさと降りかかるらむ”と詠
んだ。政宗はこれを直ちに「さんさ時雨」に作り替え、陣中の兵士に唄わせた
という。防府(ほうふ)市富海や山口県美束町の「雨乞踊り」の節回しにも似て
いて、東京の足立区には「さんさ踊り」の盆踊りがあり、清元や常盤津にも取
り入れられている。江戸中期以後のはやり唄が東北地方に移入され、仙台を中
心とする伊達領で「祝い唄」になったものか。
  オーケストラ伴奏で唄うものが多いが、良いものがない。松元木兆が手拍子
を入れて唄ったものが模範的演唱。成田雲竹は、郷里の唄以外のものを唄う時、
必ずその地の師匠についた。研究を重ねた上で唄ったという。
            ◎松元  木兆COCF-9305(91)
            ○成田  雲竹COCJ-30669(99)
            ○佐伯千恵子COCF-6547(90)
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  「塩釜甚句」(宮城)
    《塩釜街道に 白菊植えて 何を聞く聞く 便り聞く》
  奥州一の塩釜神社がある塩釜は、門前町、漁港として賑わい、遊廓が神社坂
の下から西町本町まで並んでいた。仙台伊達家三代・綱宗は、江戸新吉原三浦
屋の遊女・高尾を身請けするなどの不行跡があったため、在職わずか二年で二
歳の亀千代に跡目を譲り、仙台では遊廓を作ることが禁じられた。城下の人々
は塩釜街道を四里歩いて塩釜の遊廓へ通った。その遊廓で漁師や船頭相手の遊
女が酒席で唄っていた騒ぎ唄。九州天草の牛深で生まれた「ハイヤ節」が、船
人によって各地の港へ持ち回られ、青森の八戸あたりの港へ移入されて「南部
アイヤ節」となり、更に南下して、塩釜で「塩釜甚句」となった。
            ◎加賀  徳子COCF-9305(91)
            ◎峰岸 利子VICG-2062(91)
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  「十三浜(じゅうさんはま)甚句」(宮城)
    《一つ唄います 十三浜甚句 地なし 節なし 所節》
  金華山の北方、宮城県桃生(ものう)郡雄勝(おがつ)町の名振湾に面した十三
浜地方に伝わる。同地の漁師が酒席の騒ぎ唄として唄っていた。唄は三陸沿岸
一帯で広く唄われている「浜甚句」の一種で「遠島甚句」などと同系統。「遠
島甚句」は「浜甚句」の中で最も洗練されているが、「大漁唄い込み」の付随
曲となり、汐の香が失われつつある。この唄には、まだ漁師の酒盛り唄として
の野生味が残っている。
            ○衣川  喜仁COCF-9305(91)
            ○熊谷 一夫COCF-10446(92)
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  「定義節」(宮城)
    《ござれ七月 六日の晩に 二人揃うて 縁結び 縁結び》
  仙台市の北西、大倉川の支流・湯川渓谷にのぞむ定義(じょうげ)温泉は、三
階滝や材木岩などの景勝があり、近くに定義如来がある。その縁日で唄われた。
もとは山唄。
            ○加賀  徳子COCJ-30336(99)
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  「新さんさ時雨」(宮城)
    《萱の根方に そと降る雨は 音も立てねば 名も立たぬ
      音も立てねど 萱野の雨に 思い増す穂は 色にでる》
  宮城県下では「さんさ時雨」を唄い終わらないうちは、ほかの唄を唄っては
ならないという不文律がある。「さんさ時雨」を母体にして、東北民謡研究家
・武田忠一郎(1892-1970)が戦前に作曲した。後藤桃水(1880-1960)はこの唄が
歌謡曲調であるのを嫌い、発表の場を与えなかったが、民謡がしだいに流行歌
調に流れ始めると唄われるようになった。武田の妻である民謡歌手・大西玉子
(-1993)の持ち唄。武田忠一郎は東北民謡を五線譜に記録した日本最初の研究
者で、「東北民謡集」全6巻の大著がある。
  米谷威和男(-2000)は、尺八、笛の名手で、民謡歌手の小杉真貴子と二人三
脚で民謡普及に努めてきた。若くして逝ったことが惜しまれる。
            ○米谷威和男KICH-2013(91)
            ○峰岸とし子VDR-25153(88)
            ○加賀  徳子CF-3457(89)
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