<富士川>
日興に付嘱を終えて身延を出山

 

 日蓮は、五十三歳の時に身延へ入山してから、八度の厳しい冬を過ごした。
 九度目の冬が間近になった弘安五年(1282)の秋、日蓮は、ついに身延を出ることを決意する。入山から三年目ごろからの「やせ病」が、いよいよ重くなってきたからである。
 常陸の湯での湯治が、出山の理由であった。常陸の湯とは、福島県いわき市の湯本温泉のことだといわれている。
 日蓮は、生まれ故郷の東の方角から風が吹き、空に雲がわくと、いつも草庵を出て庭に立ち、風に吹かれて東を眺めていた。懐かしい故郷を訪ね、父母の墓参を思い立ったのかもしれない。
 日蓮は、自身亡きあと、正法正義を更に宣揚し、一天四海、皆帰妙法、広宣流布達成への指揮をゆだねるべき法嗣を決定する。身延出山を前にした九月のある日、日蓮は日興に対して「日蓮一期弘法付嘱書」を授与した。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり…」(新版p2232全p1600)
 身延出山の日は、弘安五年九月八日のことであった。日蓮は、富士川の清流に沿って、下って行ったのである。

 

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