<車返し>
酒匂、竹之下を過ぎ身延路へ

 

 文永十一年(1274)五月十二日、日蓮は鎌倉を後にした。
 身延への道は「さかわ(小田原市酒匂)」「たけのした(静岡県駿東郡小山町竹之下)」「くるまがへし(沼津市三芳町)」「ををみや(富士宮市)」「なんぶ(山梨県南巨摩郡南部町)」(新版p1250全p964)を通る道であった。
 車返しの名は、ここが登り坂になっており、加えてこの付近一帯の沼沢地に前進を阻まれた車が、やむなく引き返したことに由来するという。
 車返しから富士を望むと、富士は前面の愛鷹山を見おろして盤石の威容を誇る。
 富士の山腹に、大きな口が開いている。宝永山の火口だ。
 有史以来、富士山は数回の噴火があった。宝永四年(1707)の大噴火で、宝永山を生んで以来、二百九十年間、鳴りをひそめている。
 宝永の爆発の際、火山灰が空高く噴き上がり、南関東から鹿島灘にいたる広範囲に、降灰をもたらしたという。
 ところで、日蓮が身延に入った理由は何であったのだろうか。
 日蓮は、父母・師匠・三宝・国の恩を報ぜんがためであると言っている。しかし、その深意は、日蓮仏法の奥義を述作するためであり、未来広布を託す人材の育成、更には本門戒壇の大本尊建立にあったと考えられる。
 車返しから大宮へ、そして南部への道は、潤井川、芝川、富士川と、三つの川を渡って行く。日蓮一行の上に、夏の日差しが照りつけていたことだろう。

 

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