<小 諸>
佐渡流罪が赦免になり鎌倉へ

 

 日蓮の佐渡での生活は、極めて粗末なものであった。
 当初、塚原三昧堂に入り、五ヶ月後、一の谷へ移る。
 冬の厳寒に責められ、食糧は終始乏しい。衣類もままならぬ状態であった。しかも、暗殺者はいつも、日蓮の命を狙っていた。
 そんな過酷な環境の中で、日蓮は人本尊開顕の書「開目抄」と法本尊開顕の書「観心本尊抄」の二大重書を著し、ほかにも「生死一大事血脈抄」「佐渡御書」「諸法実相抄」、あるいは「法華行者逢難事(ほうなんのこと)」など、数々の重要な述作をなして、令法久住の布石となしている。
 日蓮の在島は、二年半にわたった。この間、阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、国府入道夫妻、本間重連、一谷入道夫妻、中興入道、最蓮房といった人々が、次々と日蓮に帰依し、あるいは敬慕の念を寄せている。
 日蓮に常随給仕する日興も、常に折伏・弘教の先頭に立って、付近を積極的に教化したことだろう。
 文永十一年(1274)三月八日、半月前に出された幕府の流罪赦免状が、日蓮のもとに届けられる。
 佐渡を出立したのが三月十四日。海を渡り、越後の国府・直江津着が十六日である。
 日蓮の一行は、善光寺、丹波島、屋代、坂城、上田と、北国街道を歩んだ。
 小諸までくると、山並みはるか、ようやく富士が顔を出す。しばらくぶりで富士と再会した日蓮の喜びを、しみじみと思う。

 

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