<金 谷>
叡山での修学終えて故郷へ
| 比叡山を中心にした日蓮の研学は、十一年の長きにわたった。 比叡山延暦寺は、東・西・北の三塔を中心にした十六谷に、三千の坊舎が立ち並び、全国から数多くの俊秀の修行僧が集まっていた。 日蓮は、初め、東塔(とうとう)・無動寺谷(むどうじだに)の円頓坊(えんどんぼう)に住み、後に北塔・横川(よかわ)の定光院(じょうこういん)に移っている。その間、南都(奈良)の諸寺院をはじめ、高野山、四天王寺などにも足を運んで、経論の研さんに励んだのであった。 叡山には、古くから「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」という言葉がある。比叡山における厳しい環境を四つの文字に表したものだ。日蓮も、叡山の寒さと湿気に耐えながら、法華経の論議に精励したことであろう。 伝教大師最澄が、終生の念願とした法華一乗戒壇院の建立は、最澄の没後五年にして、一応の形式ができあがった。けれども、最澄の清流は、三代目の座主・慈覚(じかく)大師のころ、真言を取り入れたことによって、すでに濁り始めていた。後に日蓮は慈覚を厳しく破折(はしゃく)している。 諸宗・諸経の肝要を修めた日蓮は、叡山を下りる。途中、三井(みい)の園城寺(おんじょうじ)に寄って、故郷に向かったのは、建長五年(1253)の初夏のころであった。 故郷・房州への旅は、富士を左手に望みつつ歩む。 金谷は、近世、大井川渡しの宿場として栄えた。今、一面に続く茶畑の彼方、白雪をいただく富士を望む。 |
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(南無谷)