芸術創造の原理的視点

 

 芸術は如何に創造されるのか。その原理的視点を天台性具思想に探ってみた。

 {十界互具・百界千如}

 十界とは浅き境界より深き境界へ至る十種の生命境界であり、生命境界は人間の行動の在り方を決定づける。これを順観すれば向上解脱への課程となり、逆観すれば向下堕落のありさまとなる。ここにいう生命とは、心、意識、精神、感情、想念、思考などの心的諸活動の根底的包括総称である。
 人界は十界の中間に置かれ、中間者として位置づけられる。人間には仏界を目指し、生命を飛翔・向上させようとする上昇希求と、自らを破壊・破滅へと誘う下降志向とがある。仏道修行は、地獄界から天界までの六道を輪廻する凡夫の生命の傾向性から脱却して、尊極の仏界を目指すことである。尊極・至高の生命境界である仏界に到達することを希求するのは、生命に備わった力用であり、この生命に内在する普遍的力用が、芸術創造を可能とする。
 第七界の声聞界の生命特質は、先達、善知識の声に教えを聞き、自らを向上させようとするところにある。第八界の縁覚界は、飛花・落葉にものごとの兆しを感受し、そこから普遍的、原理的法則性を見いだそうとする生命特質を持つ。九番目の菩薩界の特質は利他性である。声聞・縁覚の二乗の生命を克服して、自利に留まらず他に貢献することを願う利他の生命である。究極の仏界はいわく言い難き境界とされ、具足・円満の理想的境界とされる。
 十界は最低境界から尊極の境界まで段階的に置かれているが、その移行は段階的ではない。十界それぞれが互いに十界を備えているから、一つの界から他の界への移行は瞬間的である。これを十界互具といい、十界は互具して百界となる。
 十界と十界とを繋ぎ、瞬時の移行を可能にして互具を形成するのが十如である。十如とは、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十をいう。仏教教説の根幹をなすのは縁起であるが、性具思想においても、縁は重要な意味を持つ。生命に本具する十界いずれかの境界顕現には、外界の縁を必要とする。
 例えば人界の衆生が、生命外在の修羅界に縁した場合、人間界に内具する修羅界は果・報として顕現する。果は生命内在の果で、自己の胸中に湧き出た修羅界である。報は生命外在の果で、十如の初めの相に修羅の相として顕現する。報は依正に分かれる。依報は環境世界であり、正報は生命主体である。この依・正は不二の関係にあって、環境世界は各境界に応じて生命主体に感じ取られる。不二は固定的に同じという意味ではなく、而二不二・不二而二で互いに影響し合う縁起の関係をいう。
 本末の相と報が究竟して等しいとは、「是の如く」相から報まで一貫して、修羅界の当体となることをいう。修羅界の当体が天界に縁すれば、直ちに本末究竟等で、一貫して天界の当体となる。このように十如は十界と十界とを結び、循環・連鎖して互具を形成する。互具することによって、最低の地獄界から尊極の仏界へ、瞬時に転変・変化し得る可能性が示される。
 現象界にあるものごとの全てが、十界のいずれかに収まるから、一切の芸術作品も、それぞれが十界いずれかの境界を顕現した存在となる。作品それぞれが、いずれも十界互具・百界千如・三千世間の当体であり、生命の普遍的法則性で貫かれている。地獄界の芸術、餓鬼界の芸術等々、十界それぞれの境界の芸術があることになる。しかし、三悪道、四悪趣の生命境界を顕現しているものは芸術と呼ぶことはできない。尊極・至高の境界を希求する生命の発露が芸術であるからである。声聞・縁覚の二乗界は特殊的である。技術や知識、あるいは理論を重視するといった二乗界の持つ生命傾向は、手段への着目であり、目的そのものへの軽視につながるからである。 
 優れた芸術作品は、確かなる存在感、独特の風格、雰囲気をたたえている。音楽、美術、文学などの分野における優れた芸術に触れた時、我が心に共感の波動が広がり、胸中の琴線は共鳴して感動が拡大・揚躍していく。その芸術作品が顕現している生命境界が、見るもの、聴くものの生命に波動を与える故である。作品にみなぎる尊極の生命境界への希求力が外縁となり、見るもの、聴くものの生命に果・報を生じ感動を生む。優れた芸術作品に内在する生命向上への希求力が、我が胸中にも発動するのである。
 芸術の創造は人間の本然的営みである。芸術創造をなさしむる要因は、芸術における至高・究極の境界を求め、その境界に到達することを願う生命の希求力による。この希求力は、人間生命に内在する生命の普遍性である。
 芸術作品を正しく評価するためには、鑑賞者は常に至高・究極の境界を目指す開かれた生命状態であらねばならない。閉じた命、苦悩に染まった境界では、優れた芸術に接しても、感動を生ずることはない。下降後退の命で、作品の正当な評価はできない。

 {三千世間}

 性具思想は、十界いずれかの生命境界にある一切の存在が、いずれも自己展開の場として、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つの場を有することを明かしている。この三世間は、主体と客体、作者と作品、作者と鑑賞者の在り方に示唆を与える。世間とは、世が時間、間が空間を意味し、時間的、空間的差異をいう。世間とは差別の意である。衆生世間は心身、国土世間は環境で、衆生世間と国土世間は、五陰世間を構成要素とする。
 五陰とは色、受、想、行、識で、色は肉体、受は感覚器官、想は想念思考作用、行は意志、識は意識、認識作用である。五陰世間は、十界それぞれの五陰に、各々違いがあることを示し、心身の差別相のことである。人間の内面にある感性、感受性、能力、才能などの差異である。この五陰によって衆生世間と国土世間が構成される。
 五陰は主体を構成するとともに、受を通して外界を受容する。受とは、眼・耳・鼻・舌・身の五根でその対境は色・声・香・味・蝕の五境である。五根は五境を受容し、衆生世間を形成する。主体と環境、すなわち見るものと見られるもの、聴くものと聴かれるもの等は、縁起の関係にある。外界と自己主体は絶えず縁起しながら衆生世間を構成する。
 衆生世間は五陰に仮りに名付けたもので、各人の個性、風格、存在感の差異を形成する。国土世間とは、生命主体の境界に応じて、その生命に照らし出された環境の差異である。衆生世間が正報、国土世間が依報となる。
 作品と作者は、依正不二の関係であり、作り手の生命境界と作品は相関関係にある。作者の生命境界は、そのまま作品の上に現れる。作品の完成度は、至高・究極の芸術境界到達までの段階に相応する。理想とすべき芸術作品は、究極の境界、あるいは限りなくその境界に近似した境界から顕現された作品である。
 一切諸法は、自己の生命外界の縁となる。我々を取り巻く環境・風土は五根によって生命主体に取り入れられ、各人の五陰の差異によって、各々異なった衆生世間を形成する。環境・風土は人間に影響し、一個の人間は環境・外界に絶えず働きかけ、それぞれの環境を形成する。十界いずれの界にも三世間なきところなく、十界の諸法一々にこの三種世間が具せられて、三千世間となるのである。

 {仏と神}

 音楽はもとより、諸芸術には宗教的祭儀と不可分の関係にある芸術を多く指摘できる。芸術は宗教の世界と不離の関係にあることが多い。それは芸術と宗教が、ともに尊極の生命を目指して向上・上昇を願う、人間生命の希求力によって生み出されたものであるからである。芸術の創作力が、人間生命の普遍性に根ざしたものである故に、地域や風土の相違によって、その本質を変えることはない。芸術に国境はなく、音楽は世界の共通語とされる所以である。
 仏界の「仏」は、「神」に置き換えることが可能である。
 この神は狭義のキリスト教の神ではない。例えば、音楽芸術の分野では、ベートーヴェンを初め西洋音楽に大きな足跡を残す音楽家の多くが求めた神は、限定された教会において体験する神ではなかった。「音楽にあっては、神は他の人々よりもずっと私に近い存在であることを私はよく知っている。私は恐れることなしに神と交わっている。音楽の啓示によって解き明かされるものは、神聖なるものへの帰依である」このベートーヴェンの言葉から、彼が教派の枠を超えた神を確信する理神論的立場にあったことが理解できる。
 「おお友よ、このような調べではない。もっと快い、歓喜に満ちたものを歌おうではないか」との呼びかけは、至高・究極の芸術的境界へ、彼自身の生命を上昇・向上させ、それとの合一を願う願望を率直に表現したものである。ミサ・ソレムニスのキリエの総譜冒頭に記した「心よりいでて、再び心へ入りゆかんことを」の言葉も、神の心に叶うまでに高められた芸術性が、神を媒体にして、再び人間の心へ入りゆくことを願った言葉と解される。
 彼らは自らに直接つながる存在としての神を確信し、それに対するゆるぎない信仰を持っていた。かって、バックハウスはベームとの演奏に際し、ベートーヴェンの音楽に対する解釈は異なるが、ベートーヴェンの音楽を通して、神の心に近づこうとする点で一致する。だから協奏曲が可能であると語ったことがあった。神との合一を願う希求力、至高・究極の芸術的境地への希求力は、個性、音楽観が異なる二人の芸術家を結び付け、聴く者をもその芸術境界の高みに誘う。
 至高の境地を希求する生命に内在する普遍性は、民族や国境の枠を超え、時空を超えて人間と人間との心をつなぐ。芸術を媒介にして人間同士が融合共和した姿には、人類の限りなき希望と、確かなる平和の基盤がある。天台性具思想は、人間生命に光を当てて、その確かなる構造を明らかに示しているのである。

(「印度学仏教学研究」第四十二巻第二号 一九九四年三月)

Copyright(c) 1994,1998 by MATSUOKA Yuuji

論文一覧