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鉄砲ゆりの様への手紙 (02.12.27)


 拝啓。寒さがいちだんと厳しくなってまいりました。益々のご清祥、心よりお慶び申し上げます。突然のお便りを差し上げましたご無礼をお許しくださいませ。ご多忙とは存じますが、以下ご一読の栄、賜りますれば幸甚に存じます。

 今年九月、とある古書店にて「河内阿呆鴉一代」が目に止まり、懐かしい鉄砲光三郎先生の文字に引かれて購入致しました。一気に読了致しました。何度も胸が熱くなって涙がこぼれたり、ユーモアあふれる筆致とエピソードに、思わず吹き出してしまうこと多々でございました。
 鉄砲先生は、今どうなさっているのだろうかと、早速インターネットで検索しましたところ、鉄砲会のホームページに、なんと六月にお亡くなりになったことがでておりました。

 鉄砲先生を偲んで「芸能生活三十周年記念盤 不滅の熱原三烈士」(1973)を聴いてみました。レコードジャケットを開くと、鉄砲先生ご夫妻のポートレイトが目に飛び込んでまいります。色調といい、アングルといい、実に華やかで、威風あたりを払う日本一の美男・美女の写真です。
 レコード盤に針を落すと、金井英人とキングス・ロアー・ストリングスのフルバンドによる厳かな前奏曲がドラマの幕開けを告げます。続いて光子先生の太鼓が打たれ、三味線の糸に乗って名調子・鉄砲節が朗々と唄い出されます。声のよさ、表現力、演技力、セリフ回しのうまさ、河内なまりのナレーション、どれをとっても最高の出来栄えであり、いまや鉄砲節は民謡・音頭の枠を超え、日本音楽のひとつの到達点をここに示しているのです。
 なまめかしい「雪乃」の登場で、エンターテインメントが加わりました。可憐な「美樹」を登場させることでドラマ性が飛躍的に増加しました。本当に素晴らしい!

 特に、この作品には、際立つ創見がふたつございます。

 まず第一は、主人公である神四郎が、幕府の軍事・警察権を握る実力者・平左衛門尉頼綱に向かって、日蓮大聖人の佐渡流罪赦免は、執権が大聖人の仏法が正しいと認めたからであると言うところでございます。北条時輔(ときすけ)の乱や蒙古からの国書到来によって、大聖人の年来の予言が的中したから赦免になったとか、鎌倉にいる大聖人の弟子・信徒の赦免運動が功奏したから赦免になったとする解釈は二義的なものでしょう。大聖人の仏法が正しいと認めたから赦免になったとする捉え方には、従来の見解を大きく転換する強い確信と主張がございます。この解釈に、きっと大聖人は喜ばれていることと存じます。

 二番目は、三烈士殉教の日時を弘安三年四月八日としたことでございます。
 熱原法難における三烈士殉教の日時は、弘安二年十月十五日説と翌三年四月八日説があり、現在は弘安二年十月十五日説が定説となされつつあります。しかし、今に遺された第一級の文献資料にその日時の根拠を求めるならば、弘安三年説が最も有力となります。なぜなら、弘安二年説は推測と想像に基づく説であり、非学問的手続きから求められた結論であるからです。
 弘安三年説を確定したのは、日蓮教学の文献学の巨匠である堀日亨(にちこう)師でした。その大著「富士日興上人詳伝」には、弘安三年説の論証課程が詳述されています。
 弘安三年説の根拠となる文献は、日興上人の弟子分帳と曼陀羅脇書ですが、このふたつの文献に"三兄弟殉教の後十四年を経て、平頼綱一族が滅びた"という記述がございます。平左衛門尉頼綱が滅ぼされた永仁元(1293)年から十四年前は「年暦をたどれば弘安三年に当たり、これが記念
荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、二十人の御勘気すなわち処分の年月日は、弘安二年十月十五日が一同ひとまず禁獄すなわち入牢で、神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する」(富士日興上人詳伝上 聖教文庫版p144)というのです。
 さすが法律家を目指して関西大学法学部に学ばれた鉄砲先生ですね。推測に基づく弘安二年説をお採りにならず、厳密な証拠立てから結論を導き出している堀日亨説を採られたのでしょう。

 演出の観点から申しましても、拷問に耐える信徒たちが唱えるお題目を、言葉ではなく、太鼓の音でイメージさせたり、信仰とか信心という言葉を多用せず、信念という言葉を使うことで、たんなる一宗派のプロパガンダ的作品に陥ることを防いで、大義に生きることの尊さ、信念を貫くことの尊さといった作品のテーマに一層の普遍性を与えています。
 また、B面冒頭の"大聖人がおられる富士のお山じゃ"というセリフは、富士山の古名が大日蓮華山(だいにちれんげざん)であり、富士の勇姿は日蓮大聖人のイメージを彷彿させるところから、極めて象徴的な言葉であると思いました。行智が狂い死にしたり、弥藤次が打ち首になったことの記録は、現在では不明と思われますが、ともに悲惨な末路をたどったことは間違いないと存じます。
 なお、平左衛門尉頼綱の死は、平禅門の乱の永仁元年四月二十二日とされております。蟇目(ひきめ)の矢には、鉄のやじりがついておりませんが、強弓で射て死に至らしめることは当然可能でございます。文献の上では、蟇目の矢で拷問されたのは弘安二年十月十五日で、処刑の日時とは異なるようです。しかし拷問が一度限りで終わることはありえず、何度も繰り返されたことでございましょう。

 心ときめく、あっという間の45分でした。見事です。感動です。鉄砲節が、のちの世までも伝えゆくべき民族の文化遺産であることを、つくづく実感いたしました。

 続いて、昨年四月に発売された「知覧の母」を聴きますと、年輪を重ねられた鉄砲先生の発声や語り口調に、過ぎ行く歳月の隔たりを感じて感慨無量となります。ここでは、三烈士のひとり・神四郎の娘のモデルとなられた美樹子様が、お父様と共演です。この曲が鉄砲先生最後のリリースとなったのですね。
 現在、朝鮮半島と日本の関係が大きな問題となって、私どもの心を痛めております。「知覧の母」を聴けば、この曲に込められた鉄砲先生の歴史観、先見性、普遍性に、誰もが感服することでございましょう。常々、世界の平和を願われていた先生のお気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。まさにこの曲は、鉄砲先生の白鳥の歌となりました。鉄砲先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 長々と綴ってまいりました。最後までお読みいただきまして大変に有難うございました。篤く御礼申し上げます。鉄砲会の益々のご発展と皆々様のご多幸、ご健勝を心からお祈り申し上げます。どうか明年が更に良いお歳でありますように。ゆりの様には、時節柄、お体ご自愛くださいませ。 敬具。

平成十四年十二月二十七日
鉄砲ゆりの様

松岡 裕治拝

追伸。鉄砲先生のことを友人の益田兼大朗に話しましたところ、先生の事を文章にしたいと言っておりました。益田は八尾の出身で、ミュージシャン、ノンフィクション作家、映像プロデューサーなどと、多方面で活躍しております。

§日興上人の弟子分帳
「在家人弟子分。富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。富士下方同郷の住人弥五郎、弟。富士下方熱原郷の住人弥六郎。此の三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年信じ始め奉る処舎兄弥藤次入道の訴に依て鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢んぬ 平の左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官[十三歳]ひき(蟇)め(目)を以て散散に射て念仏を申すべき旨 再三之を責むと雖も、廿人更に以て之を申さざる間 張本三人を召し禁めて断罪せしむ所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと雖も終に放ち畢んぬ、其の後十四年を経て平の入道判官父子謀反を発して誅せられ畢んぬ「父子」、これ(是)たゞ(但)事にあらず法華の現罰を蒙れり」(富士宗学要集 第9巻p257)

§日興上人筆の曼陀羅御本尊脇書
「徳治三戊申年卯月八日書写、駿河の国富士下方熱原郷の住人神四郎 法華宗と号して平の左衛門尉の為に頚を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道 法華宗の頸を切るの後 十四年を経て謀叛を企つる間 誅せられ畢んぬ 其子孫跡形なく滅亡し畢んぬ」(富士宗学要集 第9巻p258)



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