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井澤壽治氏への手紙 (01.5.16)



 拝啓。初夏の日差しが少しばかり強く感じられる今日この頃でございます。先日は大変お世話になりました。長時間にわたり、滋味と興趣あふれる先生のお話を種々承ることができまして、本当に楽しく有意義な一夜でございました。
 尽きざる泉の如く、深いご造詣から湧きいずる先生のお話は、浅学非才の私にとってこの上なき知的刺激となり、伏見の銘酒「鐵齋」と先生のお話に酔いながら、時のたつのも忘れて、贅沢な時間を過ごさせていただきました。本当に有難うございました。
 拝領致しましたご著書、精読させていただきました。「ぼんぼんの原風景」には、変わりゆき、失われつつある上方ことばが、場面における使用の実際によって再現されておりました。生きている言葉を、これほど精緻に留めた書は、他に類例がないと存じます。丁寧な糸かがりの造本と、美しい装丁の「上方歌歳時記」は、大衆芸能研究の第一級文献として、年月を経るにつれて不滅の光彩を放つことを深く確信するものでございます。僭越でございますが、先生のご文章は、瑞々しい感性と豊かな文化性に裏付けられておりまして、まさに「文は人なり」の思いを強くしているものでございます。
 私事でございますが、大阪の地を離れ、あらぶる関東平野に暮らして早三十年近くとなりました。先生のご著書の中で、懐かしき上方ことばと再会し、揺籃の日々の思い出が、いろいろと蘇ってまいりました。それは、私の人間形成にとって大切な思い出であり、いくつになっても忘れてはならない原点であるかと存じます。それらを心の筐筥に仕舞い置き、良き振る舞い、善なる生き方を心がけていきたいと存じます。
 世情何かと騒がしく、人間性喪失の悲しい事件が頻発している昨今でございます。それでも明るい未来建設への希望を胸に、微笑みをたたえて心清らかに、明強な歩みを運びたいと存じます。これからも井澤先生のご指導、ご鞭撻を衷心よりお願い申し上げます。
 悠揚なるお心と温かきご人格で、広く周囲に爽風を送りゆかれます井澤先生の、ご存在の重さいや増す時代でございます。益々のご健康とご健筆を、心からお祈り申し上げます。日常の些事に追われて、御礼の言上が遅くなりまして、恐縮でございます。時節柄、どうぞお体お大切になさってくださいませ。次にお目にかかれます機会を楽しみに致しております。本当に有難うございました。まずは御礼の言葉までにて失礼申しあげます。敬具。

    平成十三年五月十六日

    井澤壽治先生

松岡裕治 拝



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