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疾走する悲しみ


 モーツァルトの悲しみは疾走する。立ち止まり、鳴咽し、涙にくれることはない。モーツァルトの生涯と芸術を思うとき、「常に悲感をいだき、心遂に醒悟(めざめ)たり」という仏典のフレーズが浮かんでくる。
 「悲観」は絶望であり、希望はない。「悲感」は心を浄化し、心の内奥にひそむ本来の自己を目覚めさせてくれる。心が醒悟(しょうご)すると、見えないものが見え、聞こえない音が聞こえてくる。「悲感」は冬の厳しさ。凍りつく冬の冷たさに身を固くしても、冬は必ず春となる。やがて来る新しい芽吹きの創造を呼び起こす春の暖かさは、厳しき冬の間にたゆたう。
 快楽と安穏の中に創造はない。悲感は、抑圧され、軽視され、屈辱と断腸の思いと、やり場のない怒りが高まるとやってくる。

 モーツァルトの人生の開幕は、人々の瞠若と称賛の声で始まった。マリア・テレジアから与えられた大礼服を着て、胸を張る6歳のモーツァルトの肖像画は、その幸福なスタートを象徴する。
 ヴェルサイユ宮殿、バッキンガム宮殿のアイドルは、1770年7月、14歳になると、ローマのクレメンス法王から黄金の拍車勲章を賜り、騎士の位に叙されている。
 71年12月、ザルツブルグの大司教シュラッテンバッハが死去し、後任として72年4月、ヒエロニムス・コロレドが就任。この頃からモーツァルトの運命の歯車はきしみを始める。コロレドは、モーツァルト親子がヨーロッパ各地を旅行する休暇を与えなかった。ラジオもテレビもない時代に、多くの人から才能を認められ、栄光と多額の報酬を得るには、旅しかない。
 自由で、ちやほやと育てられた神童の魂は、初めて現実の抑圧に直面する。うっ積した圧迫感のままに5年あまりが過ぎ、21歳の77年8月、休暇願いのことから大司教と衝突。宮廷を解雇される。
 78年3月、パリに赴くが、パリの宮廷人たちは成人した22歳のモーツァルトに、何の興味も示さなかった。
 同年7月、旅に同行した母を亡くし、アロイジアには失恋。失意のうちに帰郷し、父が代筆した復職嘆願書によって、79年1月、大司教の宮廷オルガニストとして採用してもらう。
 再び忍耐と不満のザルツブルグの生活が1年と10ヶ月。日増しに感情が対立し、遂に爆発。81年6月、コロレド大司教の側近・アルコ伯爵にお尻を蹴飛ばされて、完全に追い出されたのが25歳。
 抑圧さえなければ、再び称賛と声望を得られると信じて、ウィーンでひとり立ちの音楽家として生きることを決意する。82年8月、父の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚、それからの数年はすべてが順調に進んでいった。87年5月、最大の理解者であった父が死ぬ。

 88年2月に書き上げたピアノ協奏曲(K.537)は、演奏の機会なく忘れ去られた。この年、次々と書き上げた三大交響曲は、完成後に演奏された記録もなければ出版された形跡もない。モーツァルトのピアノ演奏会には客がだれもこなくなり、モーツァルトの品の悪さを毛嫌いする貴族が増え続ける。
 金銭感覚に乏しい遊び好きのコンスタンツェは、たびたび湯治に行き大浪費。借金がだんだんふくれあがる。89年7月、悲惨な生活状態を改善しようとして、予約演奏会の予約者を募ったところ、応じたのはスヴィーテン男爵ただ一人であった。

 山のような借金に追われ、四面楚歌に陥り、誰につけを回す訳にもいかず、文句をいう相手もなく、怒りの矛先は自分に向けるしかない。やり場なき怒りがくじけたとき、悲しみが襲ってくる。自分の人生の敗北と挫折を、他人のせいでないことを思い知らされたとき、悲感はモーツァルトの音楽の中に出口を求めて噴出する。モーツァルトの音楽が不滅の光彩を放つようになるのは、まさに悲感に襲われた瞬間からであった。
 音楽に底流する悲しみは、晩年になるほど深みを増していく。しみとおるような青空の悲しみをたたえている弦楽五重奏曲。最後のピアノ協奏曲(K.595)は、枯淡の境地から音が聞こえてきて、いいしれない悲しみが漂う。クラリネット協奏曲(K.622)の第2楽章は、もはや天上の音楽としかいいようがない。この協奏曲作曲から50日もしないで、モーツァルトは未完の「レクイエム」を残し、「魔笛」の一節をくちずさみながら死を迎える。
 悲しみは芸術創造の母なる大地。「常懐悲感、心遂醒悟」は創造のキーワード。

(第55、56回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 1993.10.21,26)

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