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志鳥栄八郎氏へのオマージュ

 広い世間を見渡せば、音楽を愛している人と、必ずしもそうでない人たちが現にいる。音楽の世界を愛している人たちは、むしろ少数だ。音楽関係の仕事をしているという人たちと話していても、その感を強くする。
 口を開けば文化だの芸術だのと、いっぱしの知識と意見を持っているように見えても、じっくり話してみれば、それが誰かの受け売りであったり、付け焼刃にすぎない浅薄な知識を根拠にして発言していることがわかると、興醒めで片腹痛い思いをさせられる。
 また何よりも文化・芸術を語る当人の面相に気品がなく、立ち居振る舞いや言葉つきが粗野であるのは論外で、文化・芸術を語る資格など、はなからありはしないと思わせる。……自戒を込めて。
 文化・芸術は不毛の精神を開墾し、豊かな心の土壌を涵養して、そこに美しい花を咲かせ、人生に実りの果実を収穫させるものだ。
 音楽を心から愛し、音楽を聴く喜びを共に分かち合いたいと終生願った志鳥栄八郎氏が、本年9月5日、世を去った。享年75歳。氏は、クラシック音楽の普及振興に生涯を捧げ、レコード評論によって、わが国の音楽愛好家の裾野を大きく広げた人であった。
 12月8日、ホテルオークラ曙の間で催された「志鳥栄八郎氏を偲ぶ会」には、日本の音楽文化の舞台に薫り立つ三善清達、目黒淳、宇野功芳氏はじめ、音楽を愛し、志鳥氏の人柄と文章を愛する人々が多く参集した。
 気さくで豪放磊落、歯に衣着せぬ江戸っ子気質の志鳥氏だったが、その実、細かい気遣いと配慮をする人であった。
 志鳥氏の著書は、いずれも温かく簡潔な文章で綴られていて、音楽に対する愛情が行間に溢れている。氏の文を読んで、今すぐレコード屋さんに行って、そのレコードを買い求めたい思いにかられたことが何度もあった。志鳥氏の著書によって、クラシック音楽を聴く喜びを教わり、更に広く深く音楽を愛するようになっていったものだ。名文とは、こういう文をいう。
 志鳥氏が働き盛りの昭和40(1965)年代初期、整腸剤キノフォルムによる薬害のために、失明の危機に直面したことはよく知られている。志鳥氏は、再び立ちあがれぬ絶望のどん底に落ち込む寸前、ベートーヴェンの音楽を命綱として、暗黒の淵から這い上がったのであった。その後、視力が減退するにつれて、にせものと本物を見抜く眼力がますます冴え渡った。
 音楽は、人間に生きる喜びと、生き抜く力を与える尽きざる源泉である。音楽は人類の行く手を照らす不滅の光源である。
 芸術の創造は、宇宙に遍満すると同時に、人間生命にも内在する“至高の境地”を開拓し、外に表現していく作業である。至高の境地を外に求め、求め求めて、求め続けたあげく、一転、それが我が生命に本来備わっていることを覚知したとき、いいしれぬ歓喜が爆発する。真実の芸術作品は、作者の歓喜の生命が、奔流の如くほとばしり出たものだ。ベートーヴェンの「第九」を聴くと、その思いを強くする。
 わが国では、いつの頃からか「第九」を聴くことが年末の恒例となった。「第九」があまりにも壮麗で、厳かで、人間精神の気高さに気付かせてくれる音楽ゆえに、年に一度、衿を正して聴くのがよいとされるのだろう。
 「第九」について志鳥氏はこう解説している。
 「わたしは、ベートーヴェンの《第九》を聴くたびごとに、雄大な富士の夜明けを思い出す。それは、五体に押しかぶさってくるような、強烈な感動なのである。この富士の霊峰のように、《第九》は古今の数多い交響曲の中で、ひときわ気高く聳え立っている……読者の中には、すでに人生の辛酸をなめてこられた人もいるであろう。そして、これから味わおうとする人も多いであろう。ベートーヴェンは、苦しみに遭えば遭うほど、強くなっていった人間である。将来、あなたが、生涯における最も大きな不幸に直面するときがきたら、ただちにベートーヴェンのことを思い起こしてみることだ。『自分よりも大きな苦しみをへてきたベートーヴェンが、その苦しみをへてきたが故に、あのような大事業をなしとげたのだ』ということを考えてみることだ。そうして、あなたが苦しみを克服し新たなる人生の第一歩を踏み出したとき、もう一度、この《第九》に耳を傾けてほしい。その時の《第九》が、どれほど、あなたの心を力強く励まし、どれほどあなたの門出を祝福してくれるかわからない。そういうわたし自身が、《第九》によって新しい人生を踏み出すことのできた、一人なのである」(志鳥栄八郎「名曲ものがたり下」音楽之友社刊)
 新世紀出発のこの一年、国の内外にいろいろな出来事があった。昏迷の度、ますます深まる一年であったが、大悪が起これば大善が来たるという。「第九」に耳を傾けて、明年こそ幸せと平和の一年であることを祈りつつ、新年を新しい決意で迎えたいと思う。

(第134、135回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2001.12.29,30)

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