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プログラム・ノート

★ワーグナー Richard Wagner(1813.5.22-83.2.13)
 「タンホイザー」序曲“Tannhauser”Ouverture

 オペラ「タンホイザー」は、ワーグナーが完成した楽劇のさきがけとなる重要な作品。13世紀初頭のアイゼナハ(テューリンゲンの森林地帯の北端近くにある景勝地)ヴァルトブルク城を背景に、ミンネゼンガー(中世ドイツ騎士歌人)のタンホイザーと、彼を愛する城主の娘エリーザベト姫との悲恋を扱う。愛の神ヴェーヌスの性の誘惑から逃れられず、苦悩するタンホイザーの精神的葛藤を浮き彫りにしながら、霊と肉との激しい闘争を描いている。
 台本は、ワーグナーが1843年の誕生日に書き上げ、その年の夏ごろから作曲にとりかかった。約2年の歳月を費やして、1845年の4月13日にオーケストレーションを完了。作曲は必ずしも順調とはいえなかったが、総仕上げのころは、まるで熱病にでもとりつかれたかのような興奮状態で、仕事に没頭していたという。
 序曲では、ヴェーヌスベルクの妖艶なエロスの世界が示され、官能と逸楽の旋律が次々と現れて、聴く者を目くるめく陶酔の境地へと導く。

★スッペ Franz Suppe(1819.4.18-95.5.21)
 オペレッタ「詩人と農夫」序曲“Dichter und Bauer” Ouverture

 スッペは、ヨハン・シュトラウス、カール・ミレッカーとともに、当時のウィーンを代表する「ウィーンふうオペレッタの三大作曲家」のひとりとして、飛ぶ鳥落とす勢いがあった。
 生涯に約210曲の舞台作品を残し、そのほとんどは喜劇や寸劇の伴奏音楽で、完全なオペレッタは31曲といわれる。彼の作品のなかで、「軽騎兵」序曲とともに、最もポピュラーなこの序曲の作曲年代は明らかでない。曲は、劇中に現れる旋律を六つ集めて接続曲ふうにまとめたもの。

★リスト Franz Liszt(1811.10.22-86.7.31)
 「ハンガリー狂詩曲第2番」Ungarische Rhapsodie Nr.2

 リストは12歳のときにハンガリーを離れ、それ以来、もっぱらフランスやドイツを中心に音楽生活を送ったが、彼の体内には、いつも熱いハンガリーの血が流れていた。作曲は1847年、出版は4年後の1851年。
 日本では、ディアナ・ダービンと名指揮者ストコフスキーが出演した映画『オーケストラの少女』で演奏されてから、愛聴する人が急増した。
 「ハンガリー狂詩曲」は、ピアノ用に書かれた19の曲だが、リストはその中から6曲を管弦楽用に編曲した。その中で「第2番」は最もダイナミックな曲で、10の旋律が存分に生かされている。この曲の面白さは、そうした千変万化化する旋律の扱い方と、色彩的な音の使い方にある。

★清瀬保二 Kiyose Yasuji(1900.1.13-1981.9.14) 
 歌曲「園丁」より The Gardener 

 本来は歌とピアノの作品であるが、今回はオーケストラ用に宇宿允人によってアレンジされたものが演奏される。
 昭和4(1929)年5月、インドの詩聖・タゴール(1861-1941)が来日した。同月12日、芝の増上寺で行われた歓迎会では、清瀬がタゴールの詩「園丁」に作曲した歌曲が披露された。翁は絶えず微笑を浮かべながら、その曲に耳を傾けたという。晩年のタゴールは、西欧文明に絶望したが、人類の未来についての希望は失うことがなかった。彼の思想は、インド独立の精神的支柱となったのである。
 清瀬は、創成期にあった日本の作曲界を大きく牽引した作曲家。愛弟子の武満 徹は「清瀬先生ほど、創造の意味を深く認識されている作曲家を、私はごく僅かしか知りません。風化された太平楽の今日こそ、先生の仕事を正しく知らなければならないだろうと思います。先生の音楽こそ、私たちに生きる歓びを教えてくれるものです」と語っている。
 なべて清瀬の作品は、日本的感性に満ちていて、祖先が唄うふるさとの民謡のような香気に溢れたものである。その音には、バルトークと同じく、プリミティブな美しさがあり、民族的特性の深い省察がある。
 主な作品に「日本祭礼舞曲」「レクイエム・無名戦士」「啄木歌曲集」「日本民謡の主題による幻想曲」などがある。

  「園丁」より
 わが心 曠野の小鳥よ 
 君が眼の中に 空を見出でぬ それぞ朝の揺籃 それぞ星の王土なり
 わが歌は 君が眼の深みに 失はれぬ
 われをして ただ翔けらしめよ その大空に 寂しき その果てなき大空に
 われをして ただその空の雲を分け 日の光に 翅を広げしめよ
(訳 前田鐵之助)

★ドヴォルザーク Antonin Dvorak(1841.9.8-1904.5.1)
 交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」
 Symphony No.9 E-Minor,Op.95“From the New World”

 “ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの……ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ”。ふるさとは、精神の揺籃であり、魂の安息所である。ドヴォルザークは、遠く異郷の地・アメリカで、故国を偲んでこの曲を作曲した。
 1891年春、ドヴォルザークは、ジャネット・サーバー(Jeanette Thurber 1852-1946)女史から、ニューヨークのナショナル音楽院院長就任の招きを受ける。女史は、当時としては異例の、人種的偏見のない進歩的なナショナル音楽院を設立(1885)していた。破格の条件で招請されたドヴォルザークは、プラハの音楽院と話し合い、2年間の休暇をもらうことができた。1892年9月15日、妻と上の娘と息子を連れてチェコを発つ。
 「アメリカ時代」の最初の大作は、1893年1月10日に着手、5月24日に書きあげられた。初演は1893年12月15日、アントン・ザイドル(Anton Seidl 1850-1898)の指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー協会管弦楽団が演奏した。会場のカーネギー・ホールで、これまでに例のないほどの大成功をおさめた。ドヴォルザークは「もしアメリカを見なかったら、こうした交響曲を書くことはできなかっただろう」と述べている。人種差別のない音楽院で、黒人やアメリカ・インディアンたちとフランクに接触し、黒人霊歌やアメリカ・インディアンの音楽、アメリカ民謡などに耳を傾けた。彼はこの曲を通して、故郷ボヘミアとアメリカの心を結ぼうと思っていたのかもしれない。副題は、初演を指揮したザイドルの示唆で、ドヴォルザークが付けたといわれている。ヨーロッパからすれば、当時のアメリカは新世界であった。
 生活に疲れ、あるいは浮世の冷たさに傷ついた人々の心を癒し、明日に生きる活力を与えてくれるのは音楽である。わが国の歌謡曲人口は、クラシックのそれを遥かにしのぐ。しかし、作曲家・遠藤実は、自らの作曲の「大原点」が「新世界より」の第2楽章「家路」の愛称で親しまれている主旋律にあると言い切っている。戦前から近年にいたるまで、膨大な曲を提供した古賀政男は、自身のメロディーの源流を、朝鮮半島の民謡とチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」であると言っている。多くの大衆から愛され、支持されている二人の歌謡曲作曲家の原点が、ともにクラシック音楽にあるというのは面白い。

     第1楽章 アダージョ;アレグロ・モルト    
     第2楽章 ラルゴ
     第3楽章 スケルツォ;モルト・ヴィヴァーチェ 
     第4楽章 アレグロ・コン・フォーコ

(第130回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2001.05.20)

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