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プログラム・ノート

★チャイコフスキー(1840-93) 交響曲第六番「悲愴」

 1893年10月28日、ペテルブルクにおいて作曲者自身の指揮によって初演される。チャイコフスキーは、この曲を自分の作品の中で最良のものとみなしていた。
 同年11月6日(ロシア暦では10月25日。西欧暦より12日早い)、チャイコフスキーは死を迎える。初演からわずか一週間後のできごとであった。彼のあまりに突然の死と、最後の交響曲「悲愴」の曲が悲劇性に覆われていることなどから、彼の死はさまざまな論議を呼んだ。

 これまでチャイコフスキーの死因は、生水を飲んでコレラに罹患したものとされていた。1978年、ソ連からの亡命音楽学者アレクサンドル・オルローヴァ女史がもたらしたチャイコフスキー自殺説は、世界中の音楽ファンを驚愕させる。それは、ある貴族の甥にあてた彼の恋文から、チャイコフスキーのホモセクシュアルがロシア皇帝に密告されそうになり、発覚を恐れた法律学校の同級生たちが、彼に自殺を強要したというものであった。
 今日では、同性愛に対する世間の見方も、ある程度、理解あるものとなっているが、当時のロシアでこれがおおやけになれば、大変な不名誉であり、場合によっては死刑を宣告されることもあった。チャイコフスキーの場合、相手が皇帝と縁続きだったため、死刑のおそれが十分あった。このことを知ったチャイコフスキーの友人たちは、作曲者の名誉を守るため、自らの命を絶つことをすすめたのである。チャイコフスキーは、彼らの意見に従い死を選んだという。

 チャイコフスキーが生きた19世紀後半のロシアは、大きな変動を迎えつつあった。彼がまだ法律学校の生徒だった1852年から59年の間にクリミア戦争が起こり、ロシアが敗退している。ペテルブルク音楽院入学の直前には、19世紀ロシアの社会改革開始を告げる象徴的できごとである農奴解放令が公布されている。伝統的な価値観や秩序の崩壊が進み、社会不安は増大していた。彼の生涯は、ロシア社会の急激な変化と過程に、ほぼ重なり合っている。「悲愴」に流れる陰鬱さは、当時のロシア全体を包んでいた空気であり、鉛のように重苦しい空の下で、貧困生活を余儀なくされている当時のロシア人全体の暗さ、寂しさであった。
 しかし、チャイコフスキーの曲には、悲劇の中で苦しみながら涙を流しているような単純な感情だけがあるのではない。そうした悲劇を超えた悲劇性、悲劇を超えればその後に、光が見えてくるというような、オプティミスティックな感情がその底流にある。彼の音楽は、闇が深ければ深いほど暁は近いことを、我々に教えてくれるのである。

★スメタナ(1824-84)交響詩『わが祖国』より「モルダウ」

 全6曲から成る連作交響詩の二曲目である。曲は祖国チェコに対する限りなき愛情と感謝に満ち溢れ、モルダウ河の流れが、あたかもVTRを見るかように活写されている。
 岩間から漏れ出した清水は、やがて小さなせせらぎとなり、岩に当たって快活な音を立てる。川の水は陽光を受けて美しく輝き、しだいに川幅を増して行く。両岸には狩猟の角笛や農民たちが収穫の踊りを踊っているのが見える。やがて流れは聖ヨハネの急流にさしかかり、すさまじい水しぶきを上げる。それから流れはゆるやかになり、プラハに流れ込む。モルダウは、古城・ヴィシェフラドを仰ぎみながら、とうとうと流れ去っていく……。
 1880年11月5日、プラハで初演。スメタナは「わが祖国」の第一曲「ヴィシェフラド」にとりかかっていたとき、耳の病気が悪化する。「モルダウ」を書いた頃には、完全に聴覚を失っていた。
 彼が音楽を通して訴える熱烈な祖国愛・同胞愛は、長きにわたってオーストリアの圧政のもとに苦しんできたチェコの人々の勇気を鼓舞し、希望を与えた。彼は今もチェコ音楽の父として、全国民の敬愛を集めている。

★リスト(1811-86)交響詩「前奏曲」

 交響詩のジャンルは、リストによって創始された。この曲は、リストがベルリオーズの「幻想交響曲」から強い刺激を受けて作曲。多楽章の標題交響曲である「幻想」の構成の弱さを克服するために、楽章をひとつにして、形式も標題の内容に応じた自由な形をとるようにした。リストは生涯に13の交響詩を書いたが、第三番のこの曲が最もよく知られている。
 標題は、フランスの詩人・マルティヌーの「瞑想詩集」の長文の序から取られている。それは「我々の生涯は、死によって荘厳な第一音が奏でらる未知の歌への前奏曲」という文章から始まり、静かな田園生活にやすらぎを求める傷ついた魂の休息は長続きせず、信号ラッパが吹き鳴らされるとき、彼はふたたび危険な場所へいそがなければならない、と綴られている。
 だれもが人生、それは死への前奏曲なのである。

(第124回「宇宿允人の世界」演奏会プログラム 2000.6.26)

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