ミニミニ講座

 音楽家の漢字表記
 ブラームスの恋
 声の寸法
 「徒然草」の鐘の音
 「夕焼け小焼け」の歌碑
 年末と第九

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<音楽家の漢字表記>

 韓徳爾、海頓、莫差特、貝多芬、韋柏、蕭邦、舒曼、布刺謨茲、柴可夫斯基、瓦格納、李斯特、羅西尼、孟特爾遜、李姆斯基科爾沙苛夫……これらは皆、有名な音楽家です。私は誰でしょう?
 答えは、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ショパン、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、ワーグナー、リスト、ロッシーニ、メンデルスゾーン、リムスキーコルサコフ。
 長い鎖国の夢が破られた幕末の頃から明治にかけて、亜米利加(アメリカ)、英吉利(イギリス)、仏蘭西(フランス)といった先進諸外国からの新情報が、わが国に一気に流れ込んできました。この頃、作られた多くの宛字外来語は、急速な欧米文化受容の過程における混沌とした当時の状況からの産物だったのです。
 かつて、中国から漢字を受け入れた頃、私たちの祖先は、日本語の土壌へ、漢字を積極的に取り入れました。その時、例えば栗、梨、胡麻、躅躑、鯵、烏賊などの語に、くり、なし、ごま、つつじ、あじ、いかといった和語があてられたのです。
こうした宛字の作成は、もともと六書の仮借、あるいは仏典漢訳の際、音写や音訳がなされたように、漢字文化圏がもっている伝統といえるかもしれません。
 以下、クラシック音楽に関係の深い地名の漢字表記を挙げてみましょう。はたしていくつ読めるでしょうか。
 欧羅巴、独逸、伊太利、奥地利、和蘭、西班牙、葡萄牙、芬蘭、希臘、匈牙利、巴里、倫敦、維也納、伯林、哥羅尼、拝焉、安特堤、武蘭田皮休児古、多悩、来因……。
答えは、ヨーロッパ、ドイツ、イタリア、オーストリア、オランダ、スペイン、ポルトガル、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリン、ケルン、バイエルン、アムステルダム、ブランデンブルク、ドナウ、ラインです。(91.12)

 <参考文献>
 「宛字外来語辞典」辞典編集委員会 柏書房

<ブラームスの恋>

 枯葉が静かに舞い落ちる秋は、ブラームスがよく似合います。激しい恋に身をこがしながらも、生涯、伴侶を持たなかったブラームス。彼の曲の多くに、寂寥感の漂いを感ずるのは、季節のせいばかりではないでしょう。
 彼を世の中へ大きく出した恩師・シューマンが、ライン河で投身自殺を企てから亡くなるまでの約二年半、ブラームスはシューマンの一家に献身的な援助を続けます。シューマンが死を迎えた時、ブラームスは22歳。夫人のクララ・シューマンは37歳でした。それからのブラームースの生活は、クララに捧げられるのです。クララへの敬愛の情が、愛情に変わっていったのは自然の流れでしょう。クララとの親密の度合は、急速に増していきます。
 ブラームスの激しい愛は、終生変わることがありませんでした。けれども、相手は恩師・シューマンが愛した人。ブラームスは、どれほど苦しみ、悩んだことでしょうか。そうした感情の起伏が、ブラームスの創作活動に影響しないわけがありません。
 「私は彼の若さを愛したわけではありません……私は、彼の稟たる精神、彼の素晴らしい資質、彼の気高い心を愛したのです……」。クララは、後年、子供たちにこう記しました。
 ブラームスがクララに宛てた手紙には、「激情は常に人間にとって例外であり、激情が節度を超えた人間は病人とみなされます。立派な真の人間は、喜びにあっても平静で、苦しみや悩みにあっても平静なのです。激情は、じきに過ぎ去ってしまうもの。さもなければ追い払ってしまわなければなりません(趣旨)」とありました。
 理由はなんであれ、クララと結婚する決断を下せなかった彼は、生涯その負い目を背負って歩きました。結婚の決断には激情も必要だったのです。
ブラームスは、クララの死後1年、後を追うように没します。燃え立つ紅葉が、冬を前に散り果てるかのようでした。“誠の恋は忍ぶ恋”の一節が脳裏をよぎります。(91.11)

 <参考文献>
 「ブラームス」ガイリンガー著 山根銀二訳 芸術現代社

<声の寸法>

 日本民謡の声の高さは、三味線では「何本」、尺八は「何寸」と表します。民謡の伴奏楽器・三味線と尺八は、ピアノやギターなどのように、自由に移調できません。そこで三味線は、本調子、二上り、三下りなどの基本的調弦から、糸をゆるめたり張ったりして調子を変えていくのです。
 本調子は、一の糸(太い糸)から二の糸(まん中の糸)の間が完全4度。二の糸から三の糸(細い糸)の間が完全5度で、一の糸をロ(B)の音にすると、二の糸はホ(E)、三の糸はオクターブ上のロ(B)になります。
この本調子を基準にして、二の糸だけ1全音(長2度)高く調弦したのが二上り(一の糸と二の糸は完全5度)で、二の糸(嬰ヘ)と三の糸は完全4度の関係になっています。
三下りは、本調子から三の糸だけ1全音下げます。音程は一の糸と二の糸、二の糸と三の糸が完全4度となり、一の糸がハ(C)だと、二の糸は嬰ヘ(F♯)、三の糸はロ(B)になるのです。
 本調子は、荘重で、しんみりした曲。二上りは陽気な曲。三下りは叙情的な曲に向いていて、例えば、本調子は相川音頭、磯節、米山甚句、正調博多節など。二上りは斉太郎節、相馬盆唄、佐渡おけさなど。三下りには弥三郎節、五ツ木の子守唄などがあります。
 三味線の本数については、一の糸の開放弦をニ(D)の高さに調弦、それを六本の高さといい、順に半音上げて嬰ニ(D♯)、すなわち変ホ(E♭)にすると七本。順に半音ずつ上げて八本、九本としていくのです。
三味線は、唄う人の声の高さに応じて、一の糸の本数(音高)が決まりさえすれば、あとは4度か5度の関係に二の糸、三の糸を調弦していきます。
 尺八の名は、中国で管の音律を中国音律の基音である黄鐘(こうしょう=D音)に合わせるために、管の長さを一尺八寸(54.5a)と定め、これを尺八管と呼んだことからその名があります。
七世紀の中頃、日本に伝わり、これを略して尺八と呼びました。
 尺八は、竹の長さを変えることで、唄う人の声の調子に合わせます。(91.05)

 <参考文献>
 「民謡の音楽的構造」(「日本民謡全集1」)服部龍太郎 雄山閣

<「徒然草」の鐘の音>

 随筆「徒然草」には、音楽に関連した記述がたくさんあります。第十六段「神楽こそ、なまめかしく」、四十四段「笛をえならず吹きすさびたる」、百五十段「能をつかんとする人」、二百十九段「横笛の五の穴は」、二百二十六段「楽府の御論議の」などです。その外にも、能についてふれた百五十段、鐘の音律にふれた二百二十段などがあります。
 そこで問題です。二百二十段に「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし」とありますが、この「黄鐘」は“おうじき”“こうしょう”のどちらの読み方が正しいのでしょうか。
 正解は“こうしょう”です。
“おうじき”と読むと日本音名になり、洋楽音高のA音。“こうしょう”と読めば中国音名になり、洋楽音高のD音になるのです。
 日本の音名には、壱越(いちこつ)、断金(だんぎん)、平調(ひょうじょう)、勝絶(しょうぜつ)、下無(しもむ)、双調(そうじょう)、鳧鐘(ふしょう)、黄鐘(おうじき)、鸞鏡(らんけい)、盤渉(ばんしき)、神仙(しんせん)、上無(かみむ)があり、これを中国音名に置き換えると、黄鐘(こうしょう)、大呂(たいりょ)、太簇(たいそう)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂(ちゅうりょ)、○(すい=蒙偏に生)賓(ひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)となります。日本音名の壱越は、中国音名では黄鐘(こうしょう)となるのです。
 古典文学の注釈書に、“おうじき”と読んでいるものがありますが、これは日本音と中国音の両方に黄鐘の文字があるところから生じた誤りでしょう。徒然草の作者・卜部兼好が聴いた鐘は、日本一の梵鐘とされる妙心寺の鐘ですが、その音高は西洋音名のD音に近く、日本音名の“おうしき”が相当するA音ではありません。
 「徒然草」の作者・吉田兼好は、幅広い教養はもとより、中国の音楽学においても大変に深い造詣があったのです。(91.02)

 <参考文献>
 「翔んでる音楽教育とんでもない音楽教育」平島・谷村・松田・田畑共著 東京音楽社

<「夕焼け小焼け」の歌碑>

 旅先でふと見かけた歌のいしぶみ。そこには懐かしい唱歌の一節や、子供の頃に歌った童謡が刻んであったりします。こうした歌碑は全国にどれくらいあるのでしょうか。
歌碑研究の第一人者・松尾健司氏の調査によると、その数は2万を超えるといわれています。その中で最も多いのが「夕焼け小焼け」の歌碑で、全国で12カ所。では、東京都内にある「夕焼け小焼け」の歌碑を二つ訪ねてみましょう。
 最初の一つは、この歌の作詞者・中村雨紅の生地・東京都八王子市上恩方町にあります。ここは四方を山に囲まれた陣馬山の麓で、北浅川の渓流に沿った村落です。
中村雨紅(本名・高井宮吉)は、明治30(1897)2月、ここで生まれました。雨紅の名は、野口雨情の雨を一字もらい、それに染まるの意味に通ずる紅の字を付けたといいます。
 真っ赤な太陽が西山に傾くと、林も森も、みんな真っ赤に染まります。親子連れのカラスも、群れをなして帰っていきます。山寺の鐘は、子供達に、早く家に帰るようにと鳴り響きます。
 「夕焼け小焼け」は「揺篭(ゆりかご)のうた」「どこかで春が」などを作曲した草川信が作曲しました。
 都内のもう一つの碑は、JR日暮里駅からほど近い、荒川区立第二日暮里小学校の校庭にあります。ここは雨紅が19歳の時、東京府立青山師範を卒業して、初めて勤めた学校です。「夕焼け小焼け」を作詞した雨紅にとって、最初に職を得たところが“日暮れの里”にある小学校だったとは、面白いですね。
 「夕焼け小焼け」を作詞したのは、中村雨紅が22歳の頃であったといいます。(91.01)

 <参考文献>
 「文学紀行 うたのいしぶみ」(日本歌謡碑大系3) 松尾健司著 ゆまにて 

<年末と第九>

 今年もいよいよ「第九」の季節となりました。これを聴かないと、年を越せないという人も、たくさんいらっしゃると思います。
では、なぜ日本で、暮れの第九が恒例化したのでしょうか。その原点をたどってみると、意外な事実に突き当ります。
 昭和18(1943)年10月21日、雨の神宮外苑で、出陣学徒壮行会が行われました。ペンを銃に持ち変えて、学生達もとうとう戦場へ駆り出されることになったのです。
その年の12月、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)では、職員と生徒全員が集まり、壮行の音楽祭を開きました。
そこで選ばれたのが、器楽科・声楽科両方の生徒が演奏できる曲ということで、ベートーヴェンの第九交響曲「合唱付き」の第四楽章だったのです。
出陣していく学友の前途に思いを馳せながら歌いあげる“歓喜の歌”は、緊迫した感動の演奏であったことでしょう。
 戦争が終わり、復員した学徒が、帰らぬ身となった多くの学友に、追悼の意を込めて、思い出の壮行会で歌った「第九」を、同22(1947)年12月30日に日比谷公会堂で演奏しました。
翌年も、同じように演奏会が行われ、それ以後、12月の「第九」が一般化したようです。
 ちなみに「第九」の初演は、大正7(1918)年8月、徳島県の板東俘虜収容所で、ドイツ捕虜によって行われました。
 日本人による「第九」全曲の初演は、同13(1924)年11月29日で、この年は、ベートーヴェンの「第九」初演の1824年から、ちょうど百年目の記念すべき年でした。(90.12)

 <参考文献>
 「第九と日本人」鈴木淑子著 春秋社

<民音音楽資料館館報「みゅーずらんど」所収>


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