日蓮の仏教人物史

日本編〔〕〔〕〔〕〔4〕

58<大日・聖一> 天魔の禅ひろめた堕地獄の邪師

<大日>

 出生の年月も不詳で、大日能忍がどのようにして禅を修行したかについても不明である。攝津国(大阪府)水田三宝寺で達磨宗と称して禅法を弘め始めたが、その当初から、南都の旧仏教や比叡山から、大日の受戒の師が不明である点を非難されていた。
 そこで大日は文治5(1189)年、弟子を中国に派遣し、拙菴徳光(せったんとっこう)に書を通じて禅の印可を求める。徳光は中国臨済宗に属し、宋朝の帰依も厚い有力な禅者であった。徳光は大日に対してなぜか印可を与え、達磨の像も与えたという。
 日本の臨済宗の開祖とされる栄西は、大日の達磨宗に対し、厳しい修行がない点、および、戒を尊重せずに破戒放縦に流れ、形式的な坐禅だけを重んじている点を指摘し、その非を追及している。
 日蓮は「後鳥羽院の御宇(ぎょう)・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り 悪鬼其の身に入って国中の上下を誑惑(おうわく)し 代を挙げて念仏者と成り 人毎(ごと)に禅宗に趣(おもむ)一く」(p34)と、当時の状況を述べている。
 大日が弘めた禅は、下級武士や庶民階級に浸透し、法然の念仏と共に、多大の害毒を社会に流していたのである。

<聖一>

 鎌倉時代の禅宗は、大日能忍一派の達磨宗以外は禅密兼宗であり、主に天台密教の中で行われていた。聖一(1202-1280)は、兼密禅の中心人物である栄西の弟子・栄朝の門から出て、京都を中心に大きな勢力を広げた。円爾(えんに)、あるいは弁円ともいう。
 聖一は寺院経営に才能を示し、宋から帰国後、北九州に勢力を伸張した。京都に入った聖一は、摂政九条道家・良実父子の知遇を得て東福寺の開山となる。
 東福寺は、東大寺と興福寺両寺を合わせた規模の大伽藍で、その広さは都の人々の目を見晴らせるものであり、そこでは天台、真言、禅が混修されていた。
 聖一は、精力的に宮廷近づき、後嵯峨、後深草、亀山の各上皇に戒を授けている。こうした聖一のもとへ旧仏教側の学僧も、教えを請うために集まり、その門葉は隆盛を極めたという。
 日蓮は「法滅尽経」の文を引き、聖一等の「衆魔の比丘」(p140)は、死後、必ず無間地獄に堕ちると断じている。(1984.12.11)

<道隆・良忠> 日蓮に敵対した僭聖増上慢

 <道隆>

 鎌倉幕府の指導者達は、公家社会に対して常に文化的劣等感を抱いていた。そこで、宋の禅宗と文化を積極的に取り入れることで、劣勢挽回を計ったのである。
 北条時頼に招かれて来日、北宋禅を鎌倉に定着させたのが蘭渓(らんけい)道隆(1213-1278)である。道隆は、寛元4(1246)年、博多に上陸し、鎌倉の常楽寺に入って、これまでの天台密教との兼修禅と違った宋朝禅を弘め始めた。目新しい道隆の禅を求めて人々が雲集する。そこで時頼は、建長5(1253)年、広壮な建長寺を創建する。
 この後、建長寺は鎌倉の禅の中心として栄え、道隆は幕府の厚い庇護のもと、関東はもとより、中部、奥州にまで禅風を吹かせ、鎌倉の仏教界に君臨するのである。
 文永5(1286)年10月、日蓮は蒙古襲来におびえて調伏の祈祷を続ける道隆らに対し、書状を送って公場対決を迫った。日蓮は書状の中で「逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ)の者」(p173)と、道隆を釈尊に敵対する外道であると指弾している。

 <良忠>

 法然の死後、浄土宗教団は教義上の混乱から、多くの分派を生じ、互いに正統性を争っていた。その中で大きな勢力を持つ鎮西派の念阿良忠(1199-1287)は、千葉氏一門の帰依を得て、下総(千葉県)一円を教化していた。やがて鎌倉に入り、巧みに権力者に取り入って念仏の害毒を流し始める。大仏朝直は光明寺を建てて、良忠を開山とした。
 文応元(1260)年7月、日蓮は「立正安国論」を上呈して国主諌暁を断行した。安国論では、主として念仏宗を「一凶」として破折している。
 日蓮の正義の論に対し、良忠は道阿道教、長安寺能安、極楽寺良観らと共謀して日蓮を讒言する。あまつさえ、松葉ヶ谷の草庵を襲撃して命さえも狙ったのである。
 草庵襲撃で日蓮の命を奪えなかった良忠らは、次に行敏という僧を立て、法論対決を迫ってきた。日蓮は、私的な問答は無益であると、逆に公場対決を迫る。行敏らは日蓮との往復書簡を添えて、幕府に訴状を提出。幕府は慣例通り、日蓮に答弁を促した。この答弁の書が「行敏訴状会通」(p180)である。
 日蓮に厳しく破折され、論破されて完全に敗北した行敏らは、次に竜の口法難を画策する。道隆、良忠らは、まさに経文に説かれる通りの、法華経の行者を弾圧する僭聖増上慢であった。(1984.12.18)

60<良観> 日蓮の命を狙った極悪の僧

 日蓮を終生敵視し、その命までも奪おうとしたのが忍性良観(1217-1303)である。大和(奈良県)に生まれた良観は、真言律宗の西大寺叡尊に師事。やがて関東に出てきて、常陸(茨城県)三村寺を拠点に教線を張る。当地では、幕府の有力御家人・八田氏が良観を庇護したという。 
 良観を鎌倉に呼び寄せたのは、第二代執権北条義時の子で、第六代執権長時の父・北条重時(しげとき)であった。重時は広壮な極楽寺を造営し、文永4(1267)年、良観をその開山にすえる。以来、極楽寺良観と通称された。
 良観は、まともな著作が一つとしてない事実からも明らかなように、経営手腕と官界遊泳術にたけたのみの僧であった。
 北条一族の帰依を巧みに利用し、宗教界の顕職を歴任。その名声と権威を背景に、積極的に慈善事業を行っていく。
 道を作り、橋をかけ、病院を作るなど、その多彩な活動は世間の耳目をそば立たしめ、仏法に無知の人々は、良観を生き仏のように敬ったのである。
 しかし、慈善事業の財源確保のために、道路に関所を設け、米や銭を徴収したことは、人々の生活に負担を強いるものであった。日蓮は、良観の慈善事業が「還(かえ)って人の歎き」「諸人の歎き」(p476)になっていると、その偽善を指摘している。
 大旱魃に見舞われた文永8(1271)年夏、日蓮は慈善者ぶった良観の仮面をはがし、真言律宗が邪法であることを天下に示した。良観は、思いのままに雨を降らすことができると公言していたが、日蓮はその良観に、祈雨の勝負を挑んだのである。
 良観は、鎌倉中の邪法の僧を総動員して祈ったが、雨は降らず惨敗した。
 威信を失墜し、天下に恥をさらした良観は、日蓮を激しく憎悪する。次には、卑劣にも、権力者とその女房達に讒言して、日蓮をひそかに亡き者にすることをたくらんだのである。
 文永8(1271)年9月12日の夜半から引き起こされた竜の口法難、佐渡流罪、日蓮の弟子信徒に対する大弾圧は、いずれも良観の陰謀によるものであった。
 その後も池上兄弟、四条金吾など、主だった信徒への迫害の陰には常に良観がいた。「矯域(きょうぞく)の聖人」「僭聖増上慢」「国賊」(p174)、あるいは「両火房と申す謗法の聖人」(p1137)と、日蓮から破折され、指弾され続けた極悪の僧。それが極楽寺良観であった。<完>(1984.12.25)


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