日蓮の仏教人物史

日本編〔〕〔〕〔3〕〔

53<法然> 専修念仏説き無間への道を開く

 法然(1133-1212)は、美作(みまさか=岡山県)国久米郡の押領使・漆間時国の子として生まれた。
 夜襲を受けて殺された父の遺言に従って出家し、13歳の時、比叡山にのぼる。久安6(1150)年の秋、18歳の法然は、叡山西塔の黒谷に隠棲していた叡空を師と仰ぎ、経律論疏を読むとともに、各宗の奥義を学んだという。黒谷の法然が最も愛読したのは、源信の「往生要集」であった。
 ある時、善導の「観経疏」を読み、思うところがあった法然は、専修念仏の道に入る。これまでは、観想を目的とする天台流の念仏であったが、一転して、称名を第一義とする専修念仏の道を選んだのであった。それは安元元(1175)年で、法然、43歳のことと伝えられている。
 その後、黒谷から東山の吉水に移った法然は、上下貴賎を問わず、阿弥陀仏による救済を説き、称名念仏を弘めていった。法然は、念仏を弘めるにあたり、下根下機の民衆の救済こそ、仏の本願であることを強調した。
 法然の主著は「選択本願念仏集」(選択集)である。この中で、称名念仏は仏によって選択された正行であるとして、持戒や観想など、これまでの仏道修行は難行であり、雑行であるとしてしりぞけている。そして、念仏以外の教えを“捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)て”と「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」の四字でもって制止した。
 これまでの奈良・平安仏教は、主に鎮護国家を掲げ、支配階級の利益を守るための宗教であった。これに対して、すべての民衆が救われると説く法然の浄土教は、多くの庶民階級の支持を受け、称名念仏は全国に流行する。
 しかし、法然が念仏以外の教えを捨閉閣抛としたことは、釈尊の正意に背き、唯一最高の正法たる法華経をないがしろにしたことにほかならない。法華経譬喩品に「若(もし)人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ぜん……其の人命終して阿鼻獄に入らん」とある。法然の主張は、まさに阿鼻(無間)地獄の因なのである。
 日蓮は、法然を「諸仏諸経の怨敵 聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり」(p25)、「念仏は無間地獄の業」(p173)と断じている。(1983.11.6)

54<親鸞> 破戒・無慚の浄土真宗の開祖

 日蓮の著作に親鸞(1173-1262)に関する記述はない。生存当時、広く世に知られる存在ではなかったのである。
 承安3年、藤原氏の一族で下級貴族・日野有範の子として生まれた。母は定かではなく、妾腹であったといわれている。
 養和元(1181)年に出家、比叡山に入って以後二十年間、念仏僧として修学したという。叡山の親鸞の動きについては、語るべき資料がない。後世、親鸞が他力念仏門に入のは、観音や聖徳太子の夢のお告げがあったという伝説がある。
 建仁元(1201)年ごろ、京都東山の吉水にいた法然と出会った親鸞は、急速にその教説に傾斜していく。
 建永2(1207)年、公序良俗を乱し、仏法を破壊する宗として、法然一門は朝廷から禁圧を受け、法然は土佐(高知県)に流罪、親鸞は越後(新潟県)に流された。
 親鸞と交わった女性の数や子供が、果たして何人であったかについては、さまざまな論義がある。その内の一人が三善為教の女・恵信であることは定説化している。設けた子に、善鸞や信蓮がいた。
 流罪生活五年の後、破戒僧・親鸞は赦免されたようである。越後から常陸(茨城県)の笠間郡稲田郷に入った親鸞は、そこを足場に約二十年間にわたり、農民層を中心に布教した。主著である「教行信証」の草稿も、稲田の地で著されたという。
 親鸞は法然の教義を更に徹底させ、阿弥陀の本願による悪人正機説を説いて、絶対他力の立場を強調した。人が現世においてなす善悪の行為は、すべて宿業のなせる業であり、阿弥陀の本願の前には、善人や悪人といった区別はなく、ただ信心の有無だけが、極楽往生を決定する条件である。だから念仏を唱える数にしても、その多少は往生に関係がなく、一切の自己のはからいを捨てて、ただひたすら阿弥陀仏にすがり、阿仏陀仏のはからいに、一切をゆだねればよいというのである。
 こうした主張は、人々の主体的な思考を奪い、建設意欲と自主性を失わせるものであった。念仏だけを唱え、法華経を捨てさせる教義は、無間地獄の教えである。
 弘長2年11月、日蓮が伊豆に流罪中、親鸞は京都で没する。齢90であった。(1983.11.13)

55<栄 西> 密禅一致説く日本臨済宗の開祖

 栄西(1141-1215)は保延7年、備中国(岡山県)・吉備津神社の神宮である賀陽(かや)氏の子として生まれた。
 幼少のころ、郷内にあった安養寺で出家して天台僧となり、19歳の時、比叡山に上って天台密教を学ぶ。28歳になった栄西は入宋を企て、博多から中国・明州に渡り、先に中国に来ていた奈良の俊乗房重源(1121-1206)とともに、天台山や阿育王山などの大寺を巡拝した。
 このころの栄西は、中国の禅宗に対して余り関心がなく、入宋の目的は、中国密教をくわしく学ぶところにあったといわれている。約半年の滞在の後、帰国した栄西は、延暦寺の安然などの著書を通して、日本にも早くから禅法が伝来していることを知り、禅宗に対する関心を深めたが、自らは密教の修行に傾注していた。
 文治3(1287)年、再び中国に経る。その目的は、インドにまで足を伸ばし、インド仏教を持ち帰ることによって、衰微しつつある日本の仏教再興を図ろうとするところにあった。しかし、南宋の朝廷から渡印の許可がおりず、やむなく栄西は天台山に登り、懐●(尚に枚の右側)(えしょう)から禅を学ぶのである。懐●は、このころ神秀系の北宋禅に代わって力を得てきた慧能系の南宋禅・臨済宗黄竜派に属していた。
 懐●から禅の印可を得た栄西は、帰国後、まず九州に禅を弘め、更に上洛して禅を弘めようとした。ところが、畿内では大日能忍が達磨宗と称して禅法を弘めていた。大日能忍は、教外別伝・不立文字という邪説を立て、戒を尊重せずに坐禅という形式ばかりを重視する教えを説いていた。
 建久5(1194)年7月(あるいは建久6年)、無戒・破戒に流れる当時の仏教界の風潮を助長する宗として、達磨宗は朝廷に禁止される。そこで栄西は、円禅密一致の立場で「興禅護国論」を著して弁明する。以後、布教に専念して、源頼家、実朝、北条政子らの帰依を受け、後鳥羽上皇からも厚遇された。
 現存する日蓮の著作に、栄西の記述はない。それは、栄西が終始比叡山の側に立ち、天魔の禅宗の実害をあまり流さなかったと見たのか、あるいは文献が散失したためか、不明である。(1984.11.20)

56<道 元> 在家成仏否定し只管打坐説く

 道元(1200-1253)の父は源通親(みちちか)、母は藤原基房(もとふさ)の娘・伊子(いし)と伝えられている。
 3歳の時に父を失い、8歳の時に母を失う。道元は母との死別に無常を感じ、比叡山に上って天台僧となった。
 ある時、京都の建仁寺で、栄西の弟子・明全に出会い、貞応2(1223)年、明全に従って入宋する。天童山、阿育王山などの諸大寺を巡って臨済禅を学んだが満足できず、天童山で出会った曹洞禅の如浄に入門。師事すること三年でその法を受けた。 
 禅宗は仏教全体を教と禅との二門に分け、教を軽視し、禅のみを重視する。教は仏の言葉を伝えるだけだが、禅は直ちに仏心に参入し、自己の心中に仏を見ることを目指すものだとして、教外別伝・不立文字、直指人心・見性成仏などの邪説を立てている。教を軽視し、経典の文字に従わないというのは、涅槃経に説く仏法破壊の魔の行為である。
 道元は、釈尊の正意が法華経にあるとして、法華経こそが諸経の大王であり、その他の経典はその臣民眷属であるとした。しかし、仏道の実践は坐禅のみであり、只管打坐でなければならないと主張する。只管打坐とは、ただひたすら坐ることを言うが、これは法華経に説かれていない。
 道元は法華経を最も尊び、主著の「正法眼蔵」に多数の引用をしているが、在家成仏と女人成仏を否定し、出家、山居主義を標榜した。それは明らかに法華経の趣旨に背き、釈尊の心に反している。なぜなら、法華経には竜女の成仏を初め、二乗や悪人などの成仏が説かれ、在家、出家を問わず、一切衆生を等しく成仏させる、一念三千の法門が説き明かされているからである。
 道元は、他の一切の宗派との妥協を嫌った。その結果、比叡山などの旧仏教側から厳しい迫害を受ける。また、栄西門下の栄朝の弟子・円爾弁円(えんにべんねん=1202-1280)が、京都で藤原一門の絶大な庇護を受け、禅法を弘めていたこともあって、道元は京都を追われる。
 京都を去った道元は、越前(福井県)志比の庄に永平寺を草創。北条時頼から招きを受け、鎌倉に一寺建立の話もあったが、それを受けず建長5(1253)年に没する。
 道元の死後、その教団は大日能忍系の一派が牛耳り、以後、曹洞宗は対立と分裂を繰り返していく。その習性は現在に至るまでも続いているのである。
 日蓮の著作中に、道元についての記述はない。日蓮が叡山修学中、京都泉涌寺で道元と会見したという伝説があるが、根拠に乏しいものである。(1984.11.27)

57<一 遍> 全国を遊行し踊り念仏を弘める

 日蓮の著作に、一遍に関する記述はない。
 一遍房智真(1239-1289)は、時宗の開祖とされる。伊予(愛媛県)の豪族・河野通広の次男として生まれたが、10歳の時、母と死別し、父の命令で出家。法然の高弟であった証空門下の聖達に入門する。
 その後、父の死を聞いて伊予に帰るが、一族の所領争いの醜さを見て、家を捨て、各地で難行に入る。ある時、一遍は熊野神社で熊野権現から神託を得たという。時宗ではこの時が建治2(1276)年であるとして、時宗開宗の年と称している。
 神託と念仏が、どのように結びつくかは不明であるが、この時から一遍は、阿弥陀の名号を書いた紙片を人々に配り始め、念仏を勧めて全国を遊行する。これが一遍の終生の行となつた賦算(ふさん)遊行である。
 一遍の賦算遊行の足取りは、伊予一国から九州、東北地方にいたるまで、ほぼ日本全国におよぶ。一遍の行く先々、紫雲がたなびいたり、天から花が降ってくるなど、数々の奇跡が現れたと伝えられている。それを見た信者達は、踊り狂った。争って一遍の尿を飲み、信者の間では、一遍の尿を薬として尊んだという。
 一遍は、わが身の信・不信や浄・不浄を問わず、ただ口にまかせて弥陀の名号を唱えれば往生できると説き、名号の中にすでに往生が決定しているという名号至上主義に立った。そして、念仏はあらゆる自力我執を捨て、一心不乱に唱えるべきであるとして、我執を起こす血縁や所有物を一切捨てることを教えた。一遍は、自らその姿を示したことから、捨聖(すてひじり)と呼ばれている。
 正応2(1289)年、死を前にした一遍は、所持していた経典など、すべてを焼き捨てる。一遍が兵庫の和田岬の観音堂で死ぬと、随伴していた僧尼七人が後を追い、入水自殺した。残された信者達は、絶食し、念仏を唱えながら餓死することを企てたと伝えられている。
 ある時、一遍の信者が、日蓮とその門下の折伏・弘教に関心を持ち、法華と名号のどちらがすぐれているかを一遍に質問した。それに対して一遍は、法華と名号は一体であると答えたという文献が残っている。方便権教に説かれる架空の仏・阿弥陀が、実教である法華経と一体であるとの主張は、釈尊の正意に反する堕地獄の説であることはいうまでもない。(1984.12.4)


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