日蓮の仏教人物史

日本編〔〕〔2〕〔〕〔

48<慈覚(円仁)> 叡山の密教化を積極的に推進

 「慈覚・智証・短才にして 二人の身は当山に居ながら 心は東寺の弘法に同意するかの故に 我が大師には背いて 始めて叡山に真言宗を立てぬ・日本亡国の起り是なり」(p1161)
 慈覚大師円仁(794-864)は、下野(しもつけ=栃木県)国都賀郡の出身で、大同3(808)年、15歳で比叡山に登り、伝教大師最澄の弟子となる。
 承和5(838)年、遣唐使船に乗り、揚州海陵県に漂着。天台山に行くことを望んだが許可されず、翌6年に帰途についた。しかし、再び漂流し、今度は海州に着く。唐の開成5(840)年、長安に入った慈覚は、大興善寺や、青竜寺で密教の深義を学び、天竺の宝月三蔵からは悉曇(しったん=サンスクリット)を学んだ。
 たまたま、武宗の破仏に遭遇した慈覚は、会昌5(845)年の外国僧放還令で追放され、承和14(847)年、博多に帰着したのであった。
 慈覚が持ち帰った経典は、五百八十五部七百九十四巻におよび、金剛・胎蔵界の両界曼荼羅などの図像法具は21種に達したという。「入唐求法巡礼行記」は九ヶ年の旅行記である。
 慈覚が五台山と長安で研学したのは、主に真言密教であった。五台山は不空三蔵のゆかりの地であり、長安の大興善寺も不空の住寺であった。青竜寺は、かつて弘法大師空海が、恵果から金・胎両部を授けられた密教の根本道場である。
 密教での修法儀軌は、金剛界・胎蔵界・蘇悉他の三部となっている。空海は金・胎両部を受けたが、蘇悉地法は受けていなかった。ところが慈覚は青竜寺で蘇悉地法を学び、加えて叡山密教の弱点であった悉曇も十分に研さんした。そのために慈覚の帰国後は、これまで高野山、東寺を中心とする弘法の真言密教と比べて、劣勢であった比叡山天台宗の密教を、一挙に優位に立たせることになった。
 斉衡元(854)年、延暦寺の三代座主となった慈覚は、同3(856)年には、文徳天皇に両部の灌頂を授け、皇太子を初め、多数の皇族貴顕からも帰依を受けている。
 慈覚は伝教大師の弟子でありながら、叡山に総持院という大講堂を建て、大日如来を本尊とした。善無畏をあがめ、理同事別(勝)の邪義を立て、真言の三部経は法華経よりもはるかに優れているとして、その差は天地雲泥であるとした。伝教大師が生涯を賭して確立した法華一乗の立場は、こうして慈覚によって破壊され、以後、天台宗は急速に密教化していくのである。(1984.8.21)

49<智証> 密教優位の邪見を打ち出す

 智証大師円珍(814-891)は、讃岐(香川県)国那珂(なか)郡の人で、俗姓を和気氏という。空海の甥(おい)にあたる。
 15歳で比叡山に登り、義真についた。義真は、もともと訳語僧(通訳)として最澄の入唐に随伴し、帰国してからはほとんど郷里の相模(神奈川県)国に住んで、他の最澄の直弟子たちとは、あまり交流がなかった。しかし、最澄の遺言により、叡山の伝灯者(第一代座主)となっていたのである。
 仁寿3(853)年8月、入唐してまず天台山に登り、天台法門を学ぶ。天台山には、かつて慈覚大師円仁とともに入唐した円載がいた。
 円仁は天台山に登らず、長安に向かったが、円載は天台山に法を求め、そこで会昌の破仏に遭遇したのであった。円載は還俗し、唐人を妻にしてそのまま在住し、すでに帰国の望みを捨てていたのである。
 円珍は、この円載とともに長安に行き、青竜寺の法全(ほっせん)から金・胎両部の真言の秘法をはじめ、蘇悉地法、三昧耶戒などを伝授される。帰途、再び天台山に戻って、国清寺の中に日本国大徳僧院を建て、日本から留学してくる学僧の生活の便を計ろうとした。
 在唐六年の後、天安2(858)年6月、唐の商船に乗り、同年8月、九州太宰府に帰り着く。持ち帰った典籍は四百四十一部千巻の多数にのぼったという。
 帰国後、貞観4(862)年、円珍は宮中に真言の秘法を修し、清和天皇や藤原良房ら三十人あまりの貴族・高官に対し、灌頂の儀式を行う。翌貞観5年から、薗城寺(三井寺)に留まり、別当職についていたが、同10(868)年6月、55歳で延暦寺五代座主となった。
 円珍は、先代・慈覚(円仁)の「理同事勝」の主張を受け「円劣密勝」を立て、更に「理事倶勝」と称して、法華経などの顕教に対し、密教の全面的な優越を公言した。
 日蓮は「慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず」(p308)と言っている。慈覚、智証以後、叡山における法華経の正義は完全に失われ、結局「五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」(p309)という状態になってしまったのであった。(1984.9.18)

50<空也> 遊行し口唱念仏を庶民に教える

 天台大師が著した「摩訶止観」には、法華円教の実践体系のうち、最も代表的な十境十乗の観法と、それに至る四種三昧、二十五方便などの修行法が説かれている。なかでも四種三昧は、天台大師以来、法華円教の要道とされ、日本天台宗の開祖である伝教大師もこれを重視していた。四種三昧とは、心を一点に集中させるための四つの形をいう。
 この四種三昧のなかに常行三昧がある。ここでは、阿弥陀仏を本尊として、阿弥陀仏を念じ、念仏を唱えることが主要な行とされていた。
 慈覚(円仁)が比叡山に常行三昧堂を建ててから、比叡山の東塔、西塔、横川(よかわ)に、相次いで常行堂が建立される。やがて各地で常行三昧堂が建てられるようになった。それに伴って、念仏が全国的に流行していくのである。
 四種三昧は、あくまでも法華経の教義の理解を助ける手段にほかならないものであり、像法時代における修行の一つであった。したがって、初めのうちは口唱念仏といっても、貴族や上流階級の中で行われていただけであった。この口唱念仏を、庶民の中に展開していったのが空也(903-972)である。
 空也は寺院に留まらず、また従来の既成教団のいずれにも属することなく、各地を遊行し念仏を弘めた。行く先々で道路を開き、橋を架け、井戸を掘り、死人を火葬にするなど、積極的に慈善事業を行ったという。空也のこうした慈善事業は、人々を引き付ける大きな役割を果たした。
 人々はそういう空也を市聖(いちのひじり)、市上人、阿弥陀聖などと呼び、数々の伝説、虚構を作り出す。
 「持妙法華問答抄」には「空也上人 是(これ=法華経の文)を読み給いしかば 松尾の大明神は寒風をふせがせ給う」(p467)と、そのエピソードの一つが紹介されている。
 空也は四十年以上も、法華経を読誦していた。ある時、寒さに苦しむ松尾大明神が、空也の衣を所望した。空也が法華経読誦の功徳がしみ込んだ衣を与えると、大明神は、今後、空也の仏道が成就するまで、空也を守護することを誓ったという。日蓮はこの伝説を引いて、法華経読誦の功徳を教えているのである。(1984.10.9)

51<源信> 法華経に導くために念仏を宣揚

 源信(942-1017)は、大和(奈良県)国葛城(かつらぎ)郡に生まれた。幼いころに比叡山に上り、良源を師として修行に励んだ。その後、思うところがあって横川(よかわ)に隠棲する。理由は、当時の比叡山がかなり世俗化しており、それに反発したものと推定されている。
 横川に入ってから、源信は著作に専念し、多数の書を著した。そのうちで最も有名なのが「往生要集」である。
 「往生要集」には、地獄と極楽の様相が克明に描写されている。源信はここで「厭離穢土(おんりえど)・欣求(ごんく)浄土」を説き、汚れた穢土である現実世界を厭(いと)い離れて、阿弥陀仏の極楽浄土を願い求めるべきことを説いた。
 日常の世界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の世界であり、源信は、この六道を絵画的に説明している。なかでも地獄の説明は、読む人を恐怖させるほどの迫真性があり、それ以後の地獄のイメージの源泉となった。
 源信は、修行の中心を、天台の常行三昧の上に立てられた観想と口称念仏に置いた。「往生要集」に引用される論疏は天台大師のものが多い。しかし、中国浄土教の善導や道綽らの著作、特に善導の「観経疏」や「往生礼讃偈」も多く「観無量寿経」への傾斜がみられる。
 そのころ権勢を誇っていた藤原道長は「往生要集」を愛読していた。「源氏物語」や「栄華物語」に描かれた道長の浄土信仰は「往生要集」に説くところを行ったものであるという。
 源信は「往生要集」のなかで、法華経の一念信解の功徳は、念仏三昧より百千万倍優れていると説き、法華経を賛嘆した。
 「守護国家論」には「爾前最上の念仏を以(もっ)て 法華最下の功徳に対して 人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造って 自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為(な)すなり」(p50)とある。
 源信は、人々を、法華経に帰依させるための手段として、念仏を用いたのであった。しかし、それは後に法然などによって悪用され、法華経を誹謗する念仏宗の正当化に、利用されることになるのである。(1983.10.16)

52<覚鑁> 大日如来と阿弥陀同体説唱える

 真言宗は、弘法大師空海以後、勢力が伸びなかった。それは、東寺、金剛峯寺、高雄寺といった真言の諸大寺が同格で並び存し、常に確執を繰り返したことも、その理由にあげられる。
 また、真言宗では、空海の直弟の間で、すでに対立があって、当初から一宗のまとまりを欠いている。諸大寺の確執のなかで、京都の東寺と高野山の金剛峯寺との対立は、熾烈を極めるものであった。
 こうした真言宗であれば、さほどの理論的展開もなく、常に比叡山の天台宗に押され続けていたのである。真言宗は、ただひたすら皇族や貴族と密着することによって、教団維持を図ってきたといってよい。 
 空海の没後、およそ三百年の後に現れ、高野山教学を再興したのが覚鑁(1095-1143)である。
 覚鑁は、四十年にわたる白河法皇の院政の末期ごろから、徐々に名を上げてきた。彼は、肥前(佐賀県)藤津庄の追捕使の子として生まれ、元永元(1110)年に出家。南都の興福寺や東大寺で研学に励み、永久2(1114)年、高野山に上る。
 覚鑁は、高野山で秘密真言堂や大伝法院を建てるなど、鳥羽上皇の厚い庇護のもと、高野山の支配権を握り、東寺からの完全な独立を図った。しかし、それが同じ真言の檀徒から反感を買うことになって、金剛峯寺の衆徒に襲撃される。
 紀州(和歌山県)の根来(ねごろ)に逃げた覚鑁は、そこで新たに新義真言宗を立てたのであった。主著である「五輪九字明秘密釈」のなかで、密教の教主である大日如来が、そのまま極楽浄土の教主・阿弥陀如来であるとして、両者は同体異名であると言っている。
 真言宗には、早くから真言念仏の伝統があった。その伝統の上に立ち、真言の即身成仏門に浄土門を包摂することによって、聖道門と浄土門を融和させようとしたのである。このことも、高野山を追われる原因の一つとなっている。
 ところで覚鑁は、法華経をどのように見ていたのであろうか。「舎利講式」のなかで「法華は頁言の履取(はきものとり)に及ばず」(p134)と書いている。日蓮はそれを「舌に任せたる言(ことば)なり 証拠無き故に専(もっぱ)ら謗法なる可し」(p135)と、覚鑁を鋭く破折している。
 覚鑁は康治2年、風邪がもとで死去したという。(1983.10.30)


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