日蓮の仏教人物史

日本編〔1〕〔〕〔〕〔

42<蘇我・物部> 仏教受容めぐり対立抗争続ける

 「人王第三十代・欽明天皇の御宇(みよ)治(しろしめす)十三年・壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)の日・此れより西・百済国と申す国より聖明皇(せいめいおう)・日本国に仏法をわたす」(p1309)
 欽明天皇13(552)年、百済の聖明王が、釈迦仏金銅像一体と若干の幡蓋(ばんがい)、経論を伝えた。これが仏教の日本への公伝とされる。その年代については、古くから欽明天皇の13年と、同7(538)年説があって、現在では7年の方に妥当性があるとされている。
 仏教を受け入れるかどうかをめぐって、蘇我稲目と物部尾輿(おこし)・中臣(なかとみ)鎌子との間に抗争が起こった。蘇我氏は新興勢力の官僚であり、物部氏は古い伝統を持った武門の名門である。
 欽明朝が目指していた支配体制強化にあたっては、蘇我氏が進歩的・積極的立場をとったのに対し、物部氏は保守的な姿勢を保ち、常に対立していた。そこへ仏教が伝来したのであるから、両氏の対立抗争に新しい争点を与えることになり、対立は激化する。
 伝統を誇る物部氏や、神祇祭祀をつかざどる中臣氏は、日本固有の民族信仰を保持しようとした。これに対し、配下の帰化人を通じて大陸の事情に通じ、進歩的な政策を推進しようとする蘇我氏は、仏教受容を積極的に進めようとしたのである。
 蘇我氏は、西蕃(にしのとなり)の国々が、皆、仏教を敬っているのだから、日本もそのようにすべきであると主張。物部氏は、もし蕃神(となりのくにのかみ)を拝めば、我が国の神が怒りをなすと主張した。
 蘇我・物部両氏の仏教崇拝をめぐる抗争は、結局、蘇我氏の勝利に終わる。この間、欽明、用明、崇峻などの天皇は、仏法帰依の志はあったが、消極的なものであった。        
 推古朝の2(594)年2月、摂政・聖徳太子の断によって三宝興隆の詔が出され、13(605)年4月には天皇の発願で仏像が造立されて、飛鳥寺(法興寺、元興寺)に納められるなど、一転して仏教崇拝の政策が打ち出されることになった。
 仏教は公伝以前に、すでに鞍作(くらつくり)氏、秦(はた)氏などの帰化人によって日本へもたらされている。こうした民間的な仏教受容の上に、国家的な受容が決定され、日本仏教の歴史の幕が開かれたのであった。(1984.6.19)

43<聖徳太子> 日本仏教興隆の基盤を築く

 「欽明の御子(みこ)・用明の太子に上宮(じょうぐう)王子・仏法を弘通し給うのみならず 並びに法華経・浄名(維摩)経・勝鬘(しょうまん)経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ」(p263)
 聖徳太子(574-622)は用明天皇の子として生まれ、厩戸(うまやど)の皇子(おうじ)、上宮太子などと呼ばれている。
 崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏との抗争の際、太子は寺塔を建立して仏教を弘めるとの誓願を立て、仏法守護の神である四天王に祈って、崇仏派を勝利に導いたという。
 用明帝の妹が推古天皇として即位すると、太子は20歳で皇太子の位につき、摂政となった。推古2(594)年、推古帝は「三宝興隆の詔」を下すが、これを受けた群臣たちは、競って仏舎を造り、これ以後、仏教は国家の保護のもとで日本に定着するのである。
 推古12(604)年、聖徳太子は、自らが起草したといわれる「憲法十七条」を発布した。その第二条には仏・法・僧の三宝を篤く敬うべきことが示され、万人が仏教に帰依すべきことが述べられている。
 推古15(607)年、太子は小野妹子を隋に派遣、それまで朝鮮半島の三国(百済・高句麗・新羅)から大陸文化を学んでいた日本が、直接、隋との国交を始めることになったが、これは日本史上、画期的なことであった。
 太子は、推古帝のために「勝鬘経」を講じたという。ついで「法華経」を講じた太子は「三経義疏」と呼ばれる経典の注釈書を著した。それが「勝鬘義疏」「維摩義疏」「法華義流」である。現在「三経義疏」を、聖徳太子の作とすることに疑問が提出されているが、太子が仏教興隆に並々ならぬ情熱を傾けたことには、疑問の余地はない。
 太子の晩年は政治から離れて、もっぱら法隆寺、斑鳩(いかるが)寺などで、仏教の修行と研さんに励んだとされている。推古30(622)年正月、病を得、2月22日に亡くなる。
 日蓮は聖徳太子を「南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(p608)と言って、太子の仏教興隆につくした業績を称賛している。(1984.7.10)  

44<鑑 真> 天台の典籍を我が国に伝える

 「妙密上人御消息」に「聖武天皇の御宇に鑑真和尚と申せし人・漢土より日本国に律宗を渡せし・次(つい)でに天台宗の玄義・文句・円頓止観・浄名疏を渡す」(p1237)とある。
 唐僧・鑑真(688-763)は、渡日を試みて五回失敗し、六度目の試みで遂に日本へ到着した。天平勝宝5(753)年のことであった。
 翌年、難波(なにわ)に上陸、平城京に入って、東大寺大仏殿の前に小乗の戒壇を作る。鑑真は、日本の律宗の開祖となったのである。そして、聖武先帝、光明皇太后、孝謙帝、皇太子をはじめ、四百四十余人に受戒したという。
 鑑真は、渡来以前、中国天台宗の弘景(ぐけい)について天台学を学んでいる。このために、鑑真が持参した典籍は律のみならず、天台関孫のものも多く、それは後に伝教大師最澄に大きな影響を与え、日本天台宗開創の基礎をなしていくのである。
 聖徳太子による仏教興隆後、約百年の間に次々と宗派が伝えられ、やがて南都六宗が成立する。六宗とは三論・法相・成実・倶舎・律・華厳の六つである。こうした宗派は、いずれも中国直伝の宗派であり、鑑真のような渡来僧によってもたらされたものであった。
 六宗のなかで最も早く伝えられたのは三論宗であり、推古天皇の時(625)、高麗僧・慧(恵)灌(えかん)がこれを伝えた。慧灌は、嘉祥大師吉蔵に直接、三論を学んだが、中国における三論宗は、吉蔵以後、衰運をたどる。しかし、日本では隆盛に向かうのである。
 法相宗は、孝徳天皇の時(653)、道昭が入唐し、玄奘より唯識法相を受けて、持ち帰ったのが初伝とされている。成実宗は、三論宗に付属する宗(附宗)で、同様に倶舎宗も法相宗の附宗である。華厳宗は、新羅の審祥が入唐して賢首大師法蔵に華厳宗を受け、聖武天皇の天平12(740)年、初めて華厳経を講じている。
 こうして六宗が成立するのであるが、この六宗のなかに、天台、真言、禅、浄土、法華といった平安・鎌倉時代を代表する仏教の萌芽、素材を、すでに認めることができるのである。
 中国仏教は、いずれも多大な困難を伴って、日本に伝えられたものであった。鑑真が日本へたどり着いた時、すでに両眼は失明していたという。(1984.7.17)

45<聖武天皇> 全国的規模で仏教を日本に定着

 日本における仏教は、欽明天皇の時に公伝せられ、用明天皇の三宝帰依があって、推古天皇の三宝興隆の詔(みことのり)が発せられた後、聖徳太子の尽力で完全に国家レベルで受け入れられた。続いて聖武天皇(701-756)は、仏教を全国的な規模で定着させたのである。
 天平13(741)年3月、聖武天皇は、諸国に国分寺と国分尼寺建立の詔勅を下す。それは、国ごとに僧寺と尼寺各一寺を造ること、僧寺を金光明四天王護国之寺と名付け、僧侶20人を置き、封戸50戸と水田10町を与えること、尼寺を法華滅罪之寺と呼び、尼僧10人を置き、水田10町を与えること、及び、僧尼は毎月8日に「最勝王経」を読み、半月ごとに戒羯磨(かいこんま=受戒の作法)を誦すべきことなどが決められていた。
 更に、この詔勅には、国ごとに七重塔の造営や「金光明最勝王経」と「法華経」を書写させることが述べられている。国分寺、国分尼寺の造営は、宝亀元(770)年に即位した光仁天皇のころに完成をみたという。
 天平15(743)年、聖武天皇は東大寺の大仏造立の詔を発した。詔勅には、天皇がすべての人民を頼みにすること。一枝の草、一握りの土をもって、造像事業を助けようとする者があれば、これを許可せよといった趣旨が述べられている。
 巨大な仏像の鋳造は、七回の失敗をへて、八度目にようやく完成する。この完成の陰には帰化人の優れた技術のほかに、無数の民衆の尽力があったと伝えられている。ここに初めて一般民衆が仏教を媒介にして、国事に参画したのであった。
 天平勝宝4(752)年、大仏開眼会が行われる。導師はインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)であった。
 こうして東大寺を中心とする官寺仏教体制が完成し、仏教は次第に鎮護国家の宗教としての地位を築き始めていく。
 日蓮は「聖武天皇・東大寺を建立す、華厳経の教主なり、未(いま)だ法華経の実義を顕さず」(p254)と言っている。聖武天皇の当時は、大集経に説く五五百歳でいえば、多造塔寺堅固の時にあたる。日本において、法華経の実義が本格的に顕れるまでには、まだしばらくの年月を必要としたのである。(1984.7.31)

46<弘法(空海)> 亡国・亡家・亡人の邪説説く

 弘法大師空海(774-835)は、日本真言宗の開祖である。讃岐(さぬき=香川県)国多度郡に生まれ、父は佐伯氏、母は阿刀(あと)氏という名族であった。
 15歳の時、京都に上り、勉学に励んだが、ある時から出家を願い、24歳の時「三教指帰(さんごうしいき)」三巻を著す。儒・仏・道三教の優劣を論じ、仏教が最も優れるとしたこの書は、その後の空海の思想の原形を示している。
 延暦23(804)年、空海は伝教大師最澄らとともに、人唐の旅に出る。長安に入った空海は、不空の弟子・恵果(けいか=746-805)と出会い、真言密教の奥義を残らず伝授されたという。
 大同元(806)年3月、空海は二年間の留学を終えて帰朝。その後、しばらく九州に留まり、以後二年ほど消息を絶つ。それは、やがて中央の舞台に出るための策を練り、演出を凝らすための期間であったといわれている。
 大同4(809)年、嵯峨天皇が即位すると、空海は独特の政治的手腕を発揮し、天皇と宮廷に接近。着々と地歩を固めていく。
 弘仁14(823)年、嵯峨帝が退位して淳和天皇が立つと、空海はますます権力との癒着を強め、得意絶頂の時期を迎える。この間、空海は宮中に曼荼羅院を建立。そのほか、多くの寺院を自らの管理下に置き、その寺院を徐々に密教化していった。例えば、南都仏教の拠点ともいうべき東大寺の中にも真言院を建てるなど、空海はやがて南部仏教全体を密教化していくのである。     
 空海は、社会事業に対しては異常な関心を示した。たえず西国を巡回し、門弟を東国各地に派遣している。権力と癒着し、権力を背景にした社会事業で教勢拡大を図ることは、空海の常套手段としたところであった。
 空海は、顕密二教と十住心の教判を立て、大日経第一、法華経第三とした。そして、真言行者が身口意の三密相応すると、大日如来の加持力で、即身成仏できると説いている。しかし、大日如来は架空の仏であり、空海の教説は、釈尊の正意からはずれた邪説であることはいうまでもない。日蓮は、文証・理証・現証の観点から、空海の邪義を徹底して破折し「真言は亡国の悪法」(P173)と断じている。(1984.8.7)

47<伝教(最澄)> 南都六宗を論破し大乗戒壇建立

 「伝教大師は 其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ 天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(p264)。
 伝教大師最澄(767-822)は、三津首(みつのおびと)百枝(ももえ)の子として、近江(おうみ)国滋賀郡に生まれた。三津首氏は、後漢の孝献帝の末孫・登万貴(とまき)王に始まるといわれ、日本に渡来した帰化系氏族であった。最澄の父・百枝は熱心な仏教信者で、私宅を寺として、崇仏読経に余念がなかったという。
 12歳の時、近江国分寺に入り行表に師事。14歳で得度。19歳の延暦4(785)年、東大寺戒壇院で受戒し、その後、比叡山にこもって厳しい修行に専念する。最澄は、ここで天台三大部の書写と研さんに励んだが、それは唐僧・鑑真が来朝の時、持参した典籍の一部であった。
 比叡山に入った最澄は、三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗が用いる経論と、各宗の人師の釈を照合した。すると、人師の釈には、経論に相違した見解が非常に多かったのである。そこで最澄は、法華最第一の立場から、このままでは日本一国が謗法になり、天下が必ず乱れると主張。延暦21(802)年、高雄山において七寺の学僧14人と法論を行う。学僧達は「一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ」(p303)という状態となり「六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ」(p264)という結果となった。
 延暦23(804)年、入唐。天台山に登って、妙楽大師の高弟・道邃と行満に天台の妙旨をことごとく受ける。
 翌年、多数の典籍を携えて帰国した最澄は、高雄山でわが国初の大乗戒の授戒を行い、勤操(ごんそう)を初め、南都の高僧、大徳達はこぞって灌頂を受けた。
 延暦25(806)年1月、桓武天皇の病気を祈り、その功によって日本天台宗が公認される。
 弘仁7(816)年、東国に旅し、会津の法相宗の僧・徳一と論争。「守護国界章」や「法華秀句」を著して、これを打ち破った。弘仁9(818)年、比叡山に大乗戒壇設立を願い出たが、勅許がおりて実際に建立されたのは、最澄の没後であった。(1984.8.14)


日蓮の仏教人物史−目次  日本編〔1〕〔〕〔〕〔

暁洲舎Home  折々の記

日蓮の仏教人物史 http://www.1134.com/jinbutu/
Copyright (C) 2002 暁洲舎 All rights reserved.