日蓮の仏教人物史

中国編〔〕〔〕〔〕〔〕〔〕〔6〕

37<金剛智> 真言の祈祷用いて少女を焼き殺す

 金剛智(671-741)は、南インドのクシャトリア(王族)階級の出身である。那爛陀(ナーランダ)寺で出家し、以後、声明論、因明をはじめ、大小乗律、百論、十二門論などを学ぶ。
 31歳のとき、竜樹の弟子である竜智に師事し、真言密教の奥義を授けられたが、その時、竜智は七百歳であったという。
 唐の開元7(719)年、金剛智は海路で広州にやってくる。これは、善無畏が長安到着後四年目のことであった。長安では、善無畏とともに玄宗皇帝の信任を受け、洛陽と長安で訳業に従事。「金剛頂経」など八部十一巻を翻訳する。
 「大日経」「蘇悉地(そしっじ)経」とともに、真言の三部経といわれる「金剛頂経」は、漢訳に三種あって、金剛智が訳出した「金剛頂経」は「金剛頂瑜伽(ゆが)中略出念誦経(略出経)」と呼ばれている。現在、よく用いられているのは、金剛智の弟子・不空が訳した「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」の方である。
 内容は、菩薩・仏の境地に、すみやかに証入するための密教独自の秘密儀式を詳述したもので、梵文の原典はなぜか現存していない。
 金剛智は、ある時、勅命によって雨を祈る。雨は降ったが、その直後、大嵐が吹き荒れ、王臣達は一様にしらけきったという。「報恩抄」には、この間の事情が述べられた後、次のような事実が記されている。
 「姫宮の御死去ありしに、いの(祈)りをなすべしとて 御身の代(かわり)に殿上の二女七歳になりしを 薪(たきぎ)に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚(むざん)にはおぼゆれ、而(しか)れども・姫宮も・いきかへり給はず」(p226)と。祈祷修法を主とする真言密教の邪法ぶりが明らかである。
 また、金剛智は、善無畏とともに天台の一念三千を盗み取り、真言宗の肝要として、その上に印と真言とを加え、天台宗に勝れていると主張した。これがいかに邪義であるかは、人々に長く知られなかったが、日本の伝教大師が初めて明らかにした。
 開元29年、本国に帰ろうとした金剛智は、洛陽の広福寺までやってきたが、病を得てそこで没する。弟子に不空、一行、慧超などが入る。(1984.5.1)

38<不空> 内心では法華経をあがめる

 「不空三蔵の法華経の儀軌(ぎき)には 大日経金剛頂経の両部の大日をば左右に立て 法華経多宝仏をば不二の大日と定めて 両部の大日をば左右の臣下の如くせり」(p1234)
 不空(705-774)は北インドのバラモン出身で、14歳の時、金剛智に出会って弟子となった。翌年、金剛智とともに海路、広東に到着。唐の開元8(720)年、洛陽に入る。
 20歳になった時、洛陽の広福寺で具足戒を受け、瑜伽を学んで三密の法を授かり、常に金剛智に随って長安と洛陽を行き来した。この間、梵漢両語に通じていたことから、詔勅によって経典の翻訳を命じられる。
 開元29(741)年、金剛智が没すると、その遺命によって弟子を引き連れ、一旦、インドに帰る。以後、インド各地を歴訪し、真言の諸経論を求めて天宝5(746)年、再び長安に帰った。以後、大暦9(774)年に70歳で没するまでの間、長安の仏教界に君臨して、玄宗、粛宗(しゅくそう)、代宗の三皇帝に仕え、帝の厚遇を得ている。
 不空が病にかかると、代宗は不空を粛国公に任じて領地三千戸を与え、没した時には朝政を三日休んだという。
 不空が翻訳した密教経典のうち「金剛頂経」は「大日経」とともに真言密教の根本聖典である。そのほか、訳経は百十部百四十三巻にのぼり、羅什、真諦、玄奘とともに中国の四大翻訳家といわれている。しかし、日蓮は「不空三蔵は誤る事かずをほし……此の人の訳せる経論は信ぜられず」(p268)と、その訳に低い評価を下している。
 門人に含光、恵果(けいか)、慧琳などがいた。恵果は、日本の弘法大師空海に真言密教を伝えたことで知られている。
 「撰時抄」には「不空三蔵・含光法師等・師弟共に真言宗をすてて天台大師に帰伏」(p270)とある。不空は法華経が大日経などより勝っていることを知っていたのである。しかし「心移りて身移らず」(p131)で、最期まで真言師の立場を捨てることができなかった。(1984.5.8)

39<妙楽(湛然)> 諸宗を論破して天台宗を再興

 天台大師智ギによって大きく興隆した中国天台宗は、弟子の章安が継承した。智ギは、隋が天下を統一してから八年後の開皇17(597)年に亡くなり、章安は、唐の代になって14年後の貞観7(632)年に亡くなる。
 唐代に入ってから、三論・華厳・法相・律・浄土・禅・真言宗といった諸宗が華々しい活動を行った。それに比べて、天台宗の退潮はおおうべくもなかった。それは優秀な後継者に恵まれなかったためであり、唐に入って約百年間は、天台宗の暗黒時代といわれている。
 玄宗皇帝のころ、妙楽大師湛然(711-782)が現れるにおよんで、天台宗は再び勢いを取り戻す。
 妙楽は晋陵(ふりょう)の荊渓(けいけい)の人。家は代々、儒者であった。20歳の時、玄朗(673-754)に出会い、以後約二十年間にわたって、天台の教学を学んだ。出家得度したのは、38歳になってからといわれている。
 玄朗が亡くなると、妙楽は、天台宗を再興することが自らの使命であり、責任であることを痛感して積極的に弘教。他宗に対しても大いに論陣を張り、ことごとく邪義を打ち破って、多くの人々を天台宗に帰伏させた。
 天宝から大暦年間、玄宗・粛宗(しゅくそう)・代宗の三皇帝が、妙楽を宮廷に召し出そうとしたが、いずれの時も病気と称し、その要請に応じなかった。そして、もっばら大衆の中にあって、自らを厳しく律し、弘教と著述に励んだのである。
 代表的な著述には、天台大師の三大部それぞれに注釈をほどこした「法華玄義釈籖(しゃくせん)」「法華文句記」「摩訶止観輔行伝弘決(ぶぎょうでんぐけつ)」のほか「金●(金へんに卑)(こんペい)論」「十不二門」などがあり、弟子に、日本の伝教大師に天台の教法を伝えた道邃(どうすい)・行満などがいる。
 日蓮は、妙楽を「智慧かしこき人」(p302)として、諸御抄のなかで妙楽の釈を数多く引用している。
 徳宗の建中3年、72歳で亡くなるが、世に荊渓尊者として親しまれ、天台中興の祖と呼ばれている。
 妙楽によって再興された天台宗は、弟子達があとを継いだが、やがて会昌2(842)年の廃仏令によって衰え、以後はふるわず、五代のころには三大部すら顧みられなくなったという。(1984.5.22)

40<澄観> 妙楽大師に才能ある畜生と破折さる

澄観(738-839)は、真言宗や禅宗などに押され、劣勢であった華厳宗の勢いを盛り返した。妙楽より27歳若く、華厳教学を大成した賢首大師法蔵の没後二十六年目に生まれている。身長は9尺4寸(約3b)あったという。
 11歳で出家。大乗の諸経論を学び、妙楽にも師事した時期があって、天台教学をはじめ、法華経、維摩経などを学んだといわれている。
 杭州にある天竺寺で法●(言べんに先)(ほっせん)に出会い、華厳経の奥義を聞いてから、華厳宗を自らの宗とする。それからの澄観は、五台山の大華厳寺に住んで八十華厳経を講じ、長安では不空の訳場に参加したり、勅によって北インド●賓(けいひん)出身の般若三蔵とともに「四十華厳経」を訳出したりして、華厳宗を大いに宣揚した。主著に「華厳経疏」「法界玄鏡」などがある。
 澄観は、法華経と華厳経を対比して、華厳経が第一であることを主張したが、妙楽大師はこれを破折して、法華経が最第一であることを内外に示した。
 「開目抄」に「妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり 三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並(ならび)に依経を深くみ(見)広く勘(かんが)えて 寿量品の仏をしらざる者は父統の邦(くに)に迷える才能ある畜生とかけるなり」(p215)とある。妙楽大師は、澄観や法蔵を「才能ある畜生」と呼んだのである。
 澄観は天台の一念三千の法門を、華厳経の「心如工画師」の文の心であるとした。日蓮は「これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか 又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか」(p896)と言っている。
 澄観の同時代に妙楽がいたことや、禅宗が最盛時を迎えようとする頃であったこともあり、澄観の思想には、教禅一致、あるいは天台との融合といった内容が含まれている。
 文宗の開成4(839)年、澄観は102歳で没する。その生涯に七人の皇帝の師となり、鎮国大師、清涼国師、大統国師などの号を与えられ、亡くなった時は、文宗は朝政を廃すこと三日におよんだという。 
 妙楽は、皇帝からの誘いに応ずることなく、あくまでも民衆の側にあって法華経を弘通したが、澄観の生涯は、妙楽とは対照的に権力に擦り寄る一生であった。(1984.5.29)

41<道邃・行満> 伝教大師に天台の奥義を伝授

 <道邃>

 中国・長安の人で、監察御史の官を捨てて出家し、仏法の研さんに励む。唐・大暦年中、夢の中で妙楽大師が天台学の妙旨を明かすのを見た。道邃は、初めこれを信じなかったが、再び夢の中で妙楽大師が法華経を講ずるところを見る。その講義が方便品におよぼうとした時、講場に馳せ参じて妙楽大師の門下となり、五年間、仕えたのであった。 
 貞元12(796)年、天台山に入り、九年間、もっぱら天台三大部を講ずる。同20(804)年の春、台州の刺史(しし=州の長官)・陸淳は道邃を招いて、臨海県竜興寺で法華経と摩訶止観を講ずることを請うた。その年は伝教大師最澄の入唐の年であった。
 陸淳は最澄を道邃に引き合わせたが、道邃は直ちに最澄の資質がただならないことを見抜く。そこで道邃は、翌貞元21(805)年2月、最澄の質問十カ条に回答を与え、3月には、最澄に従った義真らのために大乗菩薩戒を授ける。
 「一代聖教大意」(p402)には、道邃と伝教大師との、出会いのエピソードが引かれている。
 道邃和尚が、伝教大師に天台の法門を伝えた時、道邃は天台大師が造った十五の経蔵を開いて見せる。しかし、最後の蔵が開かなかった。道邃は、この蔵の扉は、天台大師が再び世に出て開くのだと言う。その時、伝教大師は比叡山根本中堂建立の際、地中から発見した鍵を取り出してその蔵を開けた。蔵の中は、一念三千の文から放つ光で一杯だったという。
 その後、道邃は天台山国清寺において入寂したが、生没年は不明である。

<行満>

 「伝教大師……西明寺の道邃和尚・仏滝(ろう)寺の行満等に値(あ)い奉りて止観円頓の大戒を伝授」(p304)
 中国・蘇州の人。20歳で出家。妙楽大師が荊渓(けいけい)で天台学を講じてた時に入門した。妙楽の寂後は、天台山仏隴(ぶつろう)寺に住んで法門を伝持する。
 貞元20年9月、伝教大師が天台山に登ってくると、行満は大いに喜び、法華経の疏など八十二巻とともに、天台の奥義を記した書状一通を与えた。翌年5月、伝教大師が帰国する際には、詩を作って別れを惜しんだという。
 行満の生没年も、道邃と同様、不明である。伝教大師の帰国によって、仏教流伝の舞台は日本へ移る。(1984.6.12)


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