日蓮の仏教人物史

中国編〔〕〔〕〔〕〔〕〔5〕〔

32<智儼> 法華・涅槃に背く邪説を立てる

 中国華厳宗の第二祖が智儼(602-668)である。隋の大業9(613)年、12歳の時、杜順に見いだされる。時に杜順は57歳であった。杜順は、直ちに高弟達法師に智儼を託したという。
 智儼は、修学中にインドから来た一人の怪異な僧から「六相の義」を教えられる。一ヵ月の沈思黙考の末、智儼はつい悟るところがあったという。そこで智儼は、その心境から華厳経を見直して新たな解釈を加えた。それが主著の「華厳経疏(捜玄記)」である。
 「六相の義」とは、総別・同異・成壊の六相が、一つの相に他の五相を含み、しかも六相のおのおのが分を守りながら円融無礙の関係にあることを示す考え方である。
 智儼は華厳教学の主な思想である「一乗十玄門」を、師・杜順の説として説いている。
 一乗十玄門とは、華厳経の根本思想が法界縁起にあることを論証する説で、宇宙法界のあらゆる現象の事々物々が、すべて円融無礙の関係にあることを、十の観点から説いた教説である。法界縁起の界とは因の意で、一切の法がこの界(因)にもとづいて生じているさまを法界という。法の意味は「もの」をはじめとして多岐にわたるが、華厳の説くところの法とは真理と解してよい。だから法界とは真理の根拠、真理の領域という意味にもなろう。またこの十玄門は、万有一切が一に一切を具え、一切に一が現れて、宇宙法界にあまねくいきわたっている無尽の縁起を理論として構想したものであった。
 「捜玄記」を著してからの智儼の行跡には、あまり見るベきところがない。唐の総章元年に没し「章門雑孔目(孔目章)」「十玄章」「六相章」などの著作を残した。
 「守護国家論」には「亦(また)智儼・嘉祥・慈恩・善導等を引いて 徳を立てずと雖(いえど)も 法華涅槃に違する人師に於(おい)ては用うべからず 依法不故人の金言を仰ぐが故なり」(p76)とある。たとえ高徳の者であったとしても、仏説に背く邪説を説いた以上、その言葉を用いてはならないと言うのである。(1983.3.20)

33<法蔵> 女帝の厚遇受け華厳教勢を拡大

 「華厳宗と申すは法蔵法師が所立の宗なり、則天皇后の御帰依ありしによりて 諸宗・肩を並べがたかりき、しかれば王の威勢によりて宗の勝劣はありけり 法に依って勝劣なきやうなり」(p1120)
 杜順、智儼の教説を受け継いで、華厳経を大成したのが法蔵(643-712)である。法蔵が生まれたころは「貞観の治」と呼ぼれ、唐の太宗の治下、かつてない栄華を誇っていた。
 法蔵が生まれてから二年目の貞観19(645)年、インドから玄奘が大量の経論を持って長安に帰ってくる。玄奘の経論訳出により、仏教界は新しい展開の節を迎える。
 太宗から高宗の時代になると、次第に権力争いが激しくなり、684年、則天武后は帝位を奪って周を建てたのであった。
 武后は政権を奪うにあたり、仏教と道教を巧みに利用したが、帝位についてからも、仏教保護の政策をとる。法蔵は武后の厚遇を受け、勅によってたびたび太原寺で華厳経を講じた。武后は、法蔵に賢首大師の号を与えている。
 周の証聖元(695)年、于●(門構えに眞)(うてん=コータン)国の実叉難陀(じっしゃなんだ)が洛陽に来て、新訳華厳経八十巻を訳した。この時、法蔵は訳場に臨み、それを筆録した。後、法蔵は武后のために、長生殿で華厳の六相十玄の義を、金獅子を用いて講じたという。
 金の獅子は、もともと金のかたまりであるが、それが獅子の形になれば獅子に見える。しかし、本来、金そのものに変わりがない。華厳教学で説く性起現成の考えとは、この譬えで示される。すなわち、世の中の一切の現象・存在は、すべて仏のいのちの表現活動であるというのである。
 また「重々無尽の法界縁起」を教えるために、鏡十面を八方上下に配置。中に仏像を入れて一灯で照らし、像が無限に交錯するさまを示した。
 主著に「華厳経探玄記」「華厳五教章」「起信論義記」等がある。法蔵は、釈尊一代の経教を五教と十宗に分け、華厳第一、法華第二、涅槃第三とする教判を立てている。こうした考え方は、無量義経の「四十余年未顕真実」の文に相違するものであることは言うまでもない。日蓮は「華厳宗の法蔵・澄観……の諸師は 四依の大士に非ざる暗師の愚人なり」(p1034)と批判している。(1984.3.27)

34<慧能> 弟子の宣伝で南宗禅の祖となる

 中国の禅宗は、達磨・慧可・僧●(王へんの燦)(そうさん)・道信・弘忍(こうにん)と伝えられたという。慧能(638-713)は、神秀とともに五祖・弘忍の弟子であった。この神秀と慧能によって、中国の禅宗は南北二宗に分裂する。神秀の系統が北宗禅、慧能の系統が南宗禅となったのである。
 慧能の説法集として、古くから「六祖檀経」が伝えられ、ここに慧能の伝記が記されている。
 慧能は、現在の香港に近い新州に生まれ、幼くして父を失い、母の手で育てられた。ある時、金剛般若経を聞いて悟るところがあり、五祖・弘忍の存在を知って、唐の竜朔元(661)年に弘忍のもとに入門した。以後約八ヵ月余り修行した後、弘忍から法を承(う)けたとされている。
 師・弘忍が没した後、慧能は●(音へんに召)州の曹渓宝林寺に入り周辺の教化に努めた。このころ行った摩訶般若波羅蜜の説法などが、弟子の法海によって集録され「六祖檀経」となったのである。
 「六祖檀経」には、慧能と神秀とが対立したことが述べられ、慧能が善役、神秀が悪役になっている。ところが、そのような事実はなく、神秀は則天武后に認められ、大いに朝野の尊敬を集めていたこともあって、唐の中宗や武后に慧能を推薦し、詔勅を出させて入内することをすすめている。
 慧能の弟子に荷沢神会(かたくじんね)、青原行思、南岳懐譲(えじょう)などがいた。
 慧能をすべての禅宗の祖という立場にまで押し上げたのが、弟子の荷沢神会(670-762)であった。
 唐の玄宗のころ、神会が長安で説法を始めるまでは、慧能の行跡は世に知られていなかった。当時、都で知られていた有名な禅僧は、皆、神秀系統であった。神会は神秀系の禅を異端と呼び、慧能こそ弘忍の正統な後継者であり、その禅が正伝の禅であると宣伝したのである。これ以後、慧能は一躍有名になり、中国禅は慧能の南宗禅が正統といわれるようになる。
 日蓮は、慧能を「私に経を説きをける邪師」(p882)と断じ、「教外別伝・不立文字」を主張する禅宗は「天魔の所為」(p1073)の宗であると断じている。(1984.4.3)

35<善無畏> 大日経を翻訳し地獄の相で死す

 真言密教の主要経典である「大毘盧遮那(びるしゃな)成仏神変加持経(大日経)」を訳出したのが善無畏(637-735)である。
 密教の中国への伝来は、東晋時代(317-419)の初め、帛尸黎密多羅(はくしりみたら)によって、密教経典の一部が伝訳されたことに始まる。以後、さまざまな密教関係の経典が翻訳されたが、これらはいずれも雑密と呼ばれるものであった。純密と呼ばれる真言宗は、善無畏及び金剛智、不空の三人によって中国に伝えられた。
 日蓮は「報恩抄」(p315)「善無畏三蔵抄」(p886)「善無畏抄」(p1232)などで、善無畏の伝記と行跡を詳述している。
 善無畏は、東インド・烏荼(うな=オリッサ)国の国王であったが、位を捨てて出家し、法華三昧を得悟したという。
 当時、インド最大の仏教寺院であった那爛陀(ならんだ)寺で、達摩掬多(だるまきくた)に師事した善無畏は、総持瑜伽(ゆが)三密教・真言の諸印契を授けられる。
 唐の開元4(716)年、玄宗(げんそう)皇帝に迎えられて長安に入り、翌年、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を訳し、開元13(725)年には大日経を訳出する。
 善無畏は玄宗の尊敬を一身に受け、大旱魃(かんばつ)の時には勅によって雨を祈り、たちまちのうちに雨を降らしたが、間もなく暴風となって大被害をもたらしたという。
 ある時、一時に頓死して、再び生き返った善無畏が語るには、地獄に堕ちて二人の獄卒に鉄の縄でしばられ、閻魔(えんま)大王の前に連れていかれたという。
 その時、これまで修行した真言・印契など一切が思い出せず、ただ法華経の題目のみを念じた。すると首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品の「今此三界」の文を声高く唱えたところ、縄が切れて、この世に帰されたというのである。しかし、その後も密教を弘め、善無畏の臨終の様子は、彼の弟子の記録によると、身がふやけ、小さく縮まって皮が黒くなり、骨が現れたとある。
 日蓮は「人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は 仏陀の金言ぞかし」(p316)と、善無畏の臨終の相を通して、真言密教が堕地獄の悪法であることを教えている。(1984.4.10)

36<一行> 善無畏の教唆で一念三千盗み取る

 「法華真言勝劣事」に「真言の一行は天台所立の義を盗んで自宗の義と成すか」(p126)とある。
 中国に真言密教をもたらした善無畏を助け、真言勢力拡大に力を貸したのが天台僧・一行(683-727)である。
 一行は、初め三論宗を学び、禅にも通じていたが、主に天台宗の学僧として名が通っていた。記憶力がよく、特に算法、暦法にも長じ、我が国でも採用されたことがある「大衍(たいえん)暦」を作っている。
 善無畏が大日経を訳出したころ、中国の仏教界では最も権威ある宗として、天台宗が尊崇されていた。そこで善無畏は、天台僧である一行を取り込み、巧みに利用して、真言密教を中国に弘めることを企てたのである。一行は、善無畏から大日経の注釈(疏)を書くように、そそのかされる。その際、善無畏は、一行に対して次のように語ったという。
 大日経の入曼荼羅以下の諸品は、漢士では法華経と大日経に分かれるが、天竺では一経として扱われている。釈迦仏は大日経から印と真言とを捨て、理だけを取り出して法華経と名付けて舎利弗・弥勒に説いた。羅什三蔵は、その法華経を中国で訳し、天台大師はそれを見たのである。
 これに対して大日経は、大日如来が印・真言を除かず、金剛薩●(土へんに垂)に向かって説いたものである。善無畏は、それを実際に見た。このように法華経と大日経は、ともに一念三千を説いているから、理の上では同じだが、印と真言を説く大日経は事の上で優れている。これは、例えて言えば、将軍がよろいかぶとを着け、弓矢を横たえ、太刀を差しているようなものが真言宗。天台宗は赤裸の将軍のようなものであるとした。
 もとより、これは全くのつくりごとである。大日経疏ができた当初は、天台と真言との勝劣について盛んに論争がなされたが、時がたつにつれ、天台宗に天台大師ほどの智者が現れなかったこともあって、善無畏らの真言勢力が強くなり、勢力を拡大していったのである。「撰時抄」(p275)には、この間の事情が、詳しく記されている。
 開元15年10月、一行は没。年は45であった。(1984.4.17)


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