「華厳宗と申すは法蔵法師が所立の宗なり、則天皇后の御帰依ありしによりて 諸宗・肩を並べがたかりき、しかれば王の威勢によりて宗の勝劣はありけり 法に依って勝劣なきやうなり」(p1120)
杜順、智儼の教説を受け継いで、華厳経を大成したのが法蔵(643-712)である。法蔵が生まれたころは「貞観の治」と呼ぼれ、唐の太宗の治下、かつてない栄華を誇っていた。
法蔵が生まれてから二年目の貞観19(645)年、インドから玄奘が大量の経論を持って長安に帰ってくる。玄奘の経論訳出により、仏教界は新しい展開の節を迎える。
太宗から高宗の時代になると、次第に権力争いが激しくなり、684年、則天武后は帝位を奪って周を建てたのであった。
武后は政権を奪うにあたり、仏教と道教を巧みに利用したが、帝位についてからも、仏教保護の政策をとる。法蔵は武后の厚遇を受け、勅によってたびたび太原寺で華厳経を講じた。武后は、法蔵に賢首大師の号を与えている。
周の証聖元(695)年、于●(門構えに眞)(うてん=コータン)国の実叉難陀(じっしゃなんだ)が洛陽に来て、新訳華厳経八十巻を訳した。この時、法蔵は訳場に臨み、それを筆録した。後、法蔵は武后のために、長生殿で華厳の六相十玄の義を、金獅子を用いて講じたという。
金の獅子は、もともと金のかたまりであるが、それが獅子の形になれば獅子に見える。しかし、本来、金そのものに変わりがない。華厳教学で説く性起現成の考えとは、この譬えで示される。すなわち、世の中の一切の現象・存在は、すべて仏のいのちの表現活動であるというのである。
また「重々無尽の法界縁起」を教えるために、鏡十面を八方上下に配置。中に仏像を入れて一灯で照らし、像が無限に交錯するさまを示した。
主著に「華厳経探玄記」「華厳五教章」「起信論義記」等がある。法蔵は、釈尊一代の経教を五教と十宗に分け、華厳第一、法華第二、涅槃第三とする教判を立てている。こうした考え方は、無量義経の「四十余年未顕真実」の文に相違するものであることは言うまでもない。日蓮は「華厳宗の法蔵・澄観……の諸師は
四依の大士に非ざる暗師の愚人なり」(p1034)と批判している。(1984.3.27)
中国の禅宗は、達磨・慧可・僧●(王へんの燦)(そうさん)・道信・弘忍(こうにん)と伝えられたという。慧能(638-713)は、神秀とともに五祖・弘忍の弟子であった。この神秀と慧能によって、中国の禅宗は南北二宗に分裂する。神秀の系統が北宗禅、慧能の系統が南宗禅となったのである。
慧能の説法集として、古くから「六祖檀経」が伝えられ、ここに慧能の伝記が記されている。
慧能は、現在の香港に近い新州に生まれ、幼くして父を失い、母の手で育てられた。ある時、金剛般若経を聞いて悟るところがあり、五祖・弘忍の存在を知って、唐の竜朔元(661)年に弘忍のもとに入門した。以後約八ヵ月余り修行した後、弘忍から法を承(う)けたとされている。
師・弘忍が没した後、慧能は●(音へんに召)州の曹渓宝林寺に入り周辺の教化に努めた。このころ行った摩訶般若波羅蜜の説法などが、弟子の法海によって集録され「六祖檀経」となったのである。
「六祖檀経」には、慧能と神秀とが対立したことが述べられ、慧能が善役、神秀が悪役になっている。ところが、そのような事実はなく、神秀は則天武后に認められ、大いに朝野の尊敬を集めていたこともあって、唐の中宗や武后に慧能を推薦し、詔勅を出させて入内することをすすめている。
慧能の弟子に荷沢神会(かたくじんね)、青原行思、南岳懐譲(えじょう)などがいた。
慧能をすべての禅宗の祖という立場にまで押し上げたのが、弟子の荷沢神会(670-762)であった。
唐の玄宗のころ、神会が長安で説法を始めるまでは、慧能の行跡は世に知られていなかった。当時、都で知られていた有名な禅僧は、皆、神秀系統であった。神会は神秀系の禅を異端と呼び、慧能こそ弘忍の正統な後継者であり、その禅が正伝の禅であると宣伝したのである。これ以後、慧能は一躍有名になり、中国禅は慧能の南宗禅が正統といわれるようになる。
日蓮は、慧能を「私に経を説きをける邪師」(p882)と断じ、「教外別伝・不立文字」を主張する禅宗は「天魔の所為」(p1073)の宗であると断じている。(1984.4.3)
真言密教の主要経典である「大毘盧遮那(びるしゃな)成仏神変加持経(大日経)」を訳出したのが善無畏(637-735)である。
密教の中国への伝来は、東晋時代(317-419)の初め、帛尸黎密多羅(はくしりみたら)によって、密教経典の一部が伝訳されたことに始まる。以後、さまざまな密教関係の経典が翻訳されたが、これらはいずれも雑密と呼ばれるものであった。純密と呼ばれる真言宗は、善無畏及び金剛智、不空の三人によって中国に伝えられた。
日蓮は「報恩抄」(p315)「善無畏三蔵抄」(p886)「善無畏抄」(p1232)などで、善無畏の伝記と行跡を詳述している。
善無畏は、東インド・烏荼(うな=オリッサ)国の国王であったが、位を捨てて出家し、法華三昧を得悟したという。
当時、インド最大の仏教寺院であった那爛陀(ならんだ)寺で、達摩掬多(だるまきくた)に師事した善無畏は、総持瑜伽(ゆが)三密教・真言の諸印契を授けられる。
唐の開元4(716)年、玄宗(げんそう)皇帝に迎えられて長安に入り、翌年、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を訳し、開元13(725)年には大日経を訳出する。
善無畏は玄宗の尊敬を一身に受け、大旱魃(かんばつ)の時には勅によって雨を祈り、たちまちのうちに雨を降らしたが、間もなく暴風となって大被害をもたらしたという。
ある時、一時に頓死して、再び生き返った善無畏が語るには、地獄に堕ちて二人の獄卒に鉄の縄でしばられ、閻魔(えんま)大王の前に連れていかれたという。
その時、これまで修行した真言・印契など一切が思い出せず、ただ法華経の題目のみを念じた。すると首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品の「今此三界」の文を声高く唱えたところ、縄が切れて、この世に帰されたというのである。しかし、その後も密教を弘め、善無畏の臨終の様子は、彼の弟子の記録によると、身がふやけ、小さく縮まって皮が黒くなり、骨が現れたとある。
日蓮は「人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は 仏陀の金言ぞかし」(p316)と、善無畏の臨終の相を通して、真言密教が堕地獄の悪法であることを教えている。(1984.4.10)
「法華真言勝劣事」に「真言の一行は天台所立の義を盗んで自宗の義と成すか」(p126)とある。
中国に真言密教をもたらした善無畏を助け、真言勢力拡大に力を貸したのが天台僧・一行(683-727)である。
一行は、初め三論宗を学び、禅にも通じていたが、主に天台宗の学僧として名が通っていた。記憶力がよく、特に算法、暦法にも長じ、我が国でも採用されたことがある「大衍(たいえん)暦」を作っている。
善無畏が大日経を訳出したころ、中国の仏教界では最も権威ある宗として、天台宗が尊崇されていた。そこで善無畏は、天台僧である一行を取り込み、巧みに利用して、真言密教を中国に弘めることを企てたのである。一行は、善無畏から大日経の注釈(疏)を書くように、そそのかされる。その際、善無畏は、一行に対して次のように語ったという。
大日経の入曼荼羅以下の諸品は、漢士では法華経と大日経に分かれるが、天竺では一経として扱われている。釈迦仏は大日経から印と真言とを捨て、理だけを取り出して法華経と名付けて舎利弗・弥勒に説いた。羅什三蔵は、その法華経を中国で訳し、天台大師はそれを見たのである。
これに対して大日経は、大日如来が印・真言を除かず、金剛薩●(土へんに垂)に向かって説いたものである。善無畏は、それを実際に見た。このように法華経と大日経は、ともに一念三千を説いているから、理の上では同じだが、印と真言を説く大日経は事の上で優れている。これは、例えて言えば、将軍がよろいかぶとを着け、弓矢を横たえ、太刀を差しているようなものが真言宗。天台宗は赤裸の将軍のようなものであるとした。
もとより、これは全くのつくりごとである。大日経疏ができた当初は、天台と真言との勝劣について盛んに論争がなされたが、時がたつにつれ、天台宗に天台大師ほどの智者が現れなかったこともあって、善無畏らの真言勢力が強くなり、勢力を拡大していったのである。「撰時抄」(p275)には、この間の事情が、詳しく記されている。
開元15年10月、一行は没。年は45であった。(1984.4.17)
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