日蓮の仏教人物史

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27<道宣> 後に法華に帰伏した南山律の祖

 「律宗の道宣等 初には反逆を存し 後には一向に帰伏せしなり」(p245)。
 道宣(596-667)は隋の開皇16年、呉興(浙江省)に生まれた。大業11(615)年、唐室の厚い尊敬を受けていた大禅定寺の智首(567-635)に師事して具足戒を受け、律を学ぶ。
 貞観19(645)年、西域から玄奘が長安に帰り、経典の翻訳を開始したが、道宣も訳場に列してその翻訳を助けた。道宣は、実に唐代における希なる学匠であった。著述は、生涯に三十五部百八十八巻といわれ、その内容も多方面に及んでいる。例えば「四分律行事抄」は、後代の律研究になくてはならないものであり「大唐内典録」は、翻訳経典を整理分類したものである。「古今仏道衡」「広弘明集」は、道教に対して仏教を大いに宣揚した。
 道宣は、史学者としても名高く「続高僧伝」「釈氏略譜」「釈迦方志」「三宝感通録」などの史書を残している。
 中国の律宗は、法總の「四分律疏」を研究した光統(こうず)法師(慧光)が祖とされ、道宣は光統に連なっている。道宣は、法華経、涅槃経等によって三教の教判を立てた。三教の教判とは、釈尊一代の経教を性空教・相空教・唯識円教の三教に分け、唯識円教を最も価値ある教えとする教判である。
 性空教は小乗自利教の一切を含み、相空教は大乗の浅教である般若皆空の教え、唯識円教は大乗の深教で、華厳、法華、楞伽、摂大乗までを含む。律宗は、本来、性空教の一分だが、大小融和の立場に立ち、分通大乗を主張して唯識円教に通ずると主張した。
 道宣は天台大師を賛嘆して「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若(ごと)く 摩訶衍(まかえん)を説くこと長風の太虚(たいこ)に遊ぶに似たり 仮令(たとえ)文字の師 千羣(せんぐん)万衆ありて彼の妙弁を数(あつ)め尋ぬとも 能く窮(きわ)むる者無し」(p270)と言っていた。
 道宣は、終南山に住んでいたことから南山律師と呼ばれ、道宣が立てた律宗を南山律宗と呼ぶ。中国の津宗は、この南山律宗の他に法礪(ほうれい)の相部宗、玄奘の弟子・懐素の東塔宗があったが、南山律宗のみが存続し、唐僧・鑑真によって日本にも伝えられた。(1984.1.24)

28<玄奘> 渡印して膨大な経論持ち帰る

 孫悟空の活躍で親しまれている西遊記で、白馬に乗った三蔵法師のモデルが玄奘(602-664)である。唐の仁寿2年、河南省に生まれた。出家後、各地を遊歴して、涅槃、摂論、毘曇などを学んだが、更にインドに渡ってその奥義を究めようとした。
 貞観3(629)年8月、天竺への旅に出た玄奘は、幾多の危険を冒し、辛苦の未に天山北路からインドに入る。玄奘は、当時の仏教大学ともいうべき那爛陀(ナーランダ)寺で戒賢に会い、瑜伽唯識の深義を学ぶ。戒賢は護法の弟子で、当時、百歳以上の高齢であったが、玄奘に対して全魂込めて法を伝えたという。
 インドの瑜伽唯識は、世親以後、陳那、無性、護法の系統と、徳慧、安慧の系統、更に難陀、勝軍の系統とに分かれたが、玄奘は有相唯識といわれる護法の系統の唯識を受けたのであった。摂論宗の祖・真諦の唯識は安慧の系統であり、無相唯識といわれている。
 玄奘はインド各地を旅し、太宗の貞観16(645)年、梵本六五七部を携え、南道を通って長安に帰った。十七年間の旅であった。帰国した玄奘は太宗に厚遇され、経典の翻訳を始める。以後、精力的に訳経に従事、高祖の麟徳元年、65歳で没するまでに、膨大な翻訳を完成させた。
 玄奘の訳経で主なものをあげると「大般若経」六百巻を初め、唯識関係では、その後の唯識仏教の根本経論とされる「解深密経」「瑜伽師地論」、無着の「摂大乗論」、世親、及び無性の「摂大乗論釈」、世親の「唯識二十論」「唯識三十頌(じゅ)」「弁中辺論」、護法の「成唯識論」などがある。このほかに、インドの旅行記である「大唐西域記」は、インド各地の宗教事情、歴史・地理・風俗などに関しての貴重な資料である。
 玄奘の訳は、従来の訳語を一変してなされたものであった。以後の経論翻訳は、ほとんど玄奘の訳語に従ったから、従来の訳を旧訳(くやく)と称し、玄奘以後の訳を新訳と呼ぶ。新訳が出たことによって、真諦訳の「摂大乗論」などは、あまりかえりみられなくなった。真諦訳から玄奘訳への転換は、中国の唯識が「無相唯識」から「有相唯識」へと主流が変わったことを意味している。
 日蓮は、玄奘が後に天台宗に帰伏したことを指摘しているが、玄奘訳の経論を依経とする法相宗については「外道の邪法にもすぎ 悪法なり」(p1119)と言っている。(1984.1.31)

29<慈恩(窺基)> 法華を賛嘆したがその心を殺す

「玄賛の第四には 故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり」(p216)「慈恩大師は玄賛十巻を造りて 法華経を讃めて地獄に堕つ、此の人は太宗皇帝の御師・玄奘三蔵の上足・十一面観音の後身と申すぞかし、音(こえ)は法華経に似たれども 心は爾前(にぜん)の経に同ずる故なり」(p1076)
 慈恩大師窺基(632-682)は、唐の貞観6年に生まれ、永淳元年、51歳で没する。17歳で出家し、玄奘の弟子となった。
 窺基が玄奘の弟子になる時、三つの条件を出したという。それは、世俗を断たないこと、葷血(くんけつ)を食べること、午後に食事をすることの三つであった。世俗を断たないとは、女性と交わることであり、葷血とは刺激の強い野菜と肉料理を意味し、いずれも出家者に対しては固く禁じられていたことである。玄奘はこれを許し、窺基を弟子にした。
 出家してから、主に長安の慈恩寺に住み、窺基が町へ行く時などは、三台の車を連ね、前の車には経典、中の車には窺基、後の車にはぜいたくな料理と遊女を乗せて行ったという。人々はこんな窺基を「三車和尚」と呼んだのであった。
 玄奘の訳業に参加した窺基は、翻訳作業と並行して、次々と玄奘訳の経論の注釈を書いていった。それで、後世、窺基のことを「百本の疏主(しょしゅ)」と呼ぶのである。
 窺基は、玄奘から最も信頼された弟子であった。玄奘は、世親の唯識二十頌に対する唯識十大論師の注釈を、全部翻訳しようとした。窺基はその作業が困難であることを指摘し、護法の説を基準として他師の説を取捨し、一本にまとめることを進言する。これを「糅訳(にゅうやく)」という。こうして出来あがったのが護法等菩薩造の「成唯識論」である。
 法相宗は窺基の注釈と、窺基の著「大乗法苑義林章」七巻が基盤になって成立した。だから、窺基は法相宗の事実上の開祖になるのである。(1984.2.7)

30<章安(灌頂)> 天台三大部を筆録し後世に伝う

 「観心本尊抄」に「章安大師云く『天竺の大論 尚(なお)其の類(たぐい)に非ず 震旦(しんたん=中国)の人師 何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん 此れ誇耀(こよう)に非ず 法相の然(しか)らしむるのみ』等云云」(p239)とある。
 章安大師灌頂(かんちょう561-632)は、師である天台大師の教説についてこのように言っている。仏教発祥の地・インドの論師達が著した大論書でさえ、比べものにならない。まして中国諸宗の人師の諸論と、勝劣を比較するなどというのは、煩わしくて語るまでもないことである。これは自分勝手に誇り、てらって言っているのではない。天台大師の説く法門自体が、そうさせるのであると。
 章安は「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の天台三大部を初め、師の講説をことごとく筆記し、これを整理して後世に伝えた。現在に至るまで、智ギの教説が伝えられているのは、章安の力によるものである。
 章安は、中国浙江省・臨海県章安に生まれた。郷の地名によって章安大師と呼ぶ。幼くして父を失い、母の手によって育てられたという。7歳で出家、20代の初めに天台山修禅寺に登り、智ギのもとで天台の教観を実習した。
 陳の至徳元(583)年、師に従って金陵の光宅寺に赴くが、この年から章安は智ギの侍者となり、以後、師が没するまでの十数年間、常随給仕したのである。
 隋の開皇17(597)年、天台大師が入寂する。その寂後は、天台山国清寺にあって、もっぱら智ギの講説の筆録を整理・完成するとともに、著述にも励んだ。晩年は、会稽の称心精舎に住んで法華経を講じたが、これを聞いた三論宗の祖・嘉祥大師吉蔵は、自らの講を廃し、弟子たちを散じて帰伏したという。
 唐の貞観6年、72歳で亡くなるまでに著した論書に「涅槃経玄義」「同経疏」「観心論疏」「隋天台智者大師別伝」「国清百論」「南岳記」等、八部四十九巻がある。
 伝教大師最澄は、章安自筆の「摩訶止観」を日本に持ち帰ったという。「一代聖教大意」には「天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり」(p402)とある。(1984.2.14)

31<杜順> 通力用いて布教した華厳宗の祖

 中国の華厳宗は杜順に始まり、智儼(ちごん)がこれを受け、第三祖の法蔵が大成した。
 初祖・杜順(557-640)は、18歳で出家した後、僧珍に仕える。僧珍は神変・奇瑞を起こす力があったらしく、隋の帝室から尊崇されていた。この僧珍を師とした杜順も、特殊な能力があったといわれ、人々の病気を治したとか、川を渡った際に、足が全く濡れなかったなどという伝説が存在している。
 杜順を中国華厳宗の祖とすることについては、古くから疑義がある。しかし、華厳宗では、杜順の積極的な大衆教化を、普賢行の実践であると見て、彼を初祖としているのである。
 普賢行とは華厳経に出てくる普賢菩薩の行願の実践で、常に民衆に随順することや、あまねく一切衆生に、仏法の功徳を回向するなどの実践をいう。華厳宗が依経とする華厳経には、東晋時代の永初2(421)年に、仏陀跋陀羅(ぶっだばっだら)が訳した「六十華厳経」と、実叉難陀(じっしゃなんだ)が、周の則天武后の聖暦2(699)年に訳した「八十華厳経」がある。
 華厳経の研究は、その一部分である十地経を注釈した世親の「十地経論」が伝えられて以来、多数の僧の手によって行われてきた。「十地経論」は、北魏の永平(508)年から、菩提流支(ぼだいるし)らによって翻訳されたが、それに基づき、後に華厳宗に吸収される地論宗が起こっている。
 華厳経の読誦や書写は、社会が混乱していた北周・北斉のころから盛んになり、北周時代には、華厳経の教主である昆盧舎那(びるしゃな)仏が崇拝されるなど、すでに盛んであった法華経信仰と並んで、華厳経信仰が大きな勢力となってくる。こうした風潮が背景となって、華厳経信仰は北周・北斉の仏教界から隋の仏教界に、更に長安を中心とする初唐の仏教界に伝えられ、やがて華厳宗が大成するのである。
 貞観14年「五教止観」「華厳法界観門」などの著書を遺して、杜順は没する。
 日蓮は「法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕(おと)さんとをもうに 叶わざればやうやく●(すか=貝へんに兼)さんがために 相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり」(p1081)と、第六天の魔王が彼等の身に入り、法華経を信ずる善人をたぼらかすのは「悪鬼入其身」の姿であると言っている。(1984.3.13)


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