日蓮の仏教人物史

中国編〔〕〔〕〔3〕〔〕〔〕〔

22<天台(智●ぎ)> 経教を整理し法華最第一を論証

 「像法に入って五百年に天台大師・漢土に出現して南北の邪義を破失して正義を立てたもう、所謂(いわゆる)教門の五時・観門の一念三千是なり、国を挙(あ)げて小釈迦と号す」(p1372)
 天台大師智ギ(538-597)は、中国天台宗の事実上の開祖である。梁・武帝の大同4年、荊州華容県(湖南省)に生まれた。7歳にして法華経普門品を誦し、以来、これを受持したという。
 梁が滅んだ時、智ギは両親を失うが、この時、出家の志を発して、湘州果願寺・法緒の門に入る。18歳の時であった。
 その後、真諦の弟子・慧曠(えこう)に師事して、律、方等を学び、衡州南境にある大賢山に登って、主に無量義経、法華経、普賢観経を修学した。この時、一つの悟りを開き、法華経に関しては、もはや問うべき師がないという確信を抱くのである。
 けれども、ひとたび南岳慧思の高名を聞くと、翻然として大賢山を下り、戦乱の危険を冒して大蘇山に上り、慧思の門下となる。この時、23歳であった。慧思のもとで厳しい修行を続けた智ギは、ある時、法華経薬王品の諸仏同讃の文から豁然として大悟する。これが大蘇開悟である。
 師の慧思が南岳に移る時に付属を受け、陳都・金陵に上って、瓦官寺で法華経を講ずる。以後、八年間にわたって人々を教化した。ちょうどこのころ、北方の北周で廃仏事件が起きていたこともあって、智ギは天台山に身を隠し、専ら修行に打ち込む。天台山では維摩経等の経論研究、及び禅法の実修を九年余り続けた。この間の修行が、やがて後年の天台教学体系化の基盤になるのである。
 至徳3(585)年、48歳の時、智ギは再び金陵に出る。陳帝・後主の再三の招請に応えたものであった。金陵にあっては、太極殿で「大智度論」や仁王経を講じ、光宅寺では「法華文句」を講じた。陳は、やがて隋に滅ぼされるが、隋の晋王広は、智ギに請うて菩薩戒を受け、以後、晋王広との深い交流ができあがる。晋王広は、後の煬帝(ようだい)である。煬帝は智ギを積極的に外護したが、このことによって天台宗は大きく隆盛する。
 開皇12(592)年、故郷の荊州玉泉寺に入る。翌年593、ここで「法華玄義」を説き、更にその翌年594「摩訶止観」を説いた。
 開皇17年11月、天台山において60歳で示寂。天台大師の講録、撰述は極めて膨大であるが、主著の「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」は、天台三大部と称される。また、他の「観音経疏」等の著作は、すべて法華経こそが仏教の極説であることを明かすためのものであった。
 天台大師の出現によって、中国に伝えられた仏教は完ペきに整えられ、釈尊出世の本懐が法華経であることが明確になったのである。(1983.12.6)

23<嘉祥(吉蔵)> 謗法悔い改めて天台大師に随従

 「三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依って吉蔵大師立て給えり」(p397)
 嘉祥大師吉蔵(549-623)の祖先は、安息(パルティア)国の人である。祖父の代に南海(広東省広州)に移住し、吉蔵は金陵(南京)で生まれた。吉蔵の名は摂大乗論を翻訳した真諦が命名したといわれる。家は代々、仏教を信奉していたが、出家していた父の道諒は、いつも吉蔵を連れて興皇寺法朗の法席に参加した。それが縁で吉蔵も出家し、法朗(507-581)の弟子となる。
 吉蔵は聞くに随って領解し、悟ること天真(=うまれつき)の如くであったといわれている。陳の桂陽王は、そんな吉蔵を深く尊敬し、その教えを味わい奉じたという。
 陳が滅んで隋が江南を統一すると、吉蔵は開皇9(589)年から会稽(かいけい=浙江省)の嘉祥寺に止宿。以後七、八年間、三論(中論・百論・十二門論)の講述と著述に専念。三論宗の教義を組織大成した。また、三論のみならず、法華経の講讃にも力を注ぎ「法華玄論」「法華義疏」「法華遊意」等の註釈書を残している。後世、吉蔵のことを嘉祥大師と呼ぶのは、この寺号によっている。
 ある時、吉蔵は天台大師と会って、法華経法師品の已今当の文について法論を戦わせた。天台大師に破折された吉蔵は直ちに改心し、これまでの謗法の重罪を消滅するために、百人余りの弟子を捨てて、七年間にわたって天台大師に仕えたという。
 「善無畏抄」には「天台大師 高坐に登り給えば 寄りて肩を足に備え 路を行き給えば 負(おい)奉り給うて堀を越え給いき、吉蔵大師程の人だにも 謗法を恐れて かくこそ仕え給いしか」(p1235)とある。
 天台大師が亡くなった開皇17(597)年、隋の晋王広は吉蔵を召して、揚州の慧日道場に招く。吉蔵はここで「三論玄義」等を著している。
 大業5(609)年、吉蔵が61歳の時、隋の斉王●(日へんに東)は、長安の仏教者六十余人を集めて討論会を開いた。吉蔵は自ら論主となって、学名高く雄弁をもって聞こえた僧●(燦の火なし)(そうさん)と問答し、これを退ける。法論では、だれも吉蔵に対抗できる者がいなかったという。
 隋にかわり唐が興ると、吉蔵は武皇に重んぜられる。吉蔵は、武徳6(623)年5月、75歳の涯を閉じた。陳末から隋を経て唐の初めまで、実に三代にわたって活躍し、歴代の王室に尊崇せられたのであった。(1983.12.13)

24<信行> 法華経は無益と説いた三階教祖

 「三階信行禅師は 法華経等の一代聖教をば別教と下(く)だす 我が作れる経をば普経と崇重せし故に 四依の大士の如くなりしかども 法華経の持者の優婆夷にせめられて こえ(声)を失ひ 現身に大蛇となり数十人の弟子を呑(の)み食う」(p361)
 三階教の開祖である信行(540-594)は、梁・武帝の大同6年、魏州(山東省)に生まれ、隋・文帝の開皇14年、55歳で没した。
 出家後、広く経論を研究。諸方を遊歴して修行に励んだという。初め相州(河南省)を中心にして、三階の教えを主張していたが、開皇9(589)年頃、勅によって長安に出て、公然と三階教を弘め始めた。
 信行は、生涯、頭陀乞食(ずだこつじき)の行を続け、長安の町で道行く人々を礼拝し「これ当来仏なり」と説いていた。長安では、三階教の根本聖典とされる「三階集録」をはじめ、多くの書を著すとともに、自らは労役に服して世の貧困救済に尽力したという。
 三階教は普法宗ともいわれ、仏教を時代と処と人について、それぞれ三階に分類するところからその名がある。時代の三階とは、仏滅後の時を正法・像法・末法に分けることであり、処の三階は、現実の世界と理想の浄土を三階に分け、浄土を第一階、穢土を二、三階としている。人の三階は、人に上・中・下があり、第一階の上の人は正法時代の人で、証悟を得られる立派な人。第二階の中の人は像法時代の人。第三階の下の人は末法の人で、悪を喜ぶ破戒・邪見・堕地獄の人々であるとする。
 信行は、こうした基本的な考えにもとづき、末法穢土に生きる第三階の人々を救うためには、どうすればよいかとの問いを投げかけ、これに答えるのが三階教であるとした。
 信行は、従来の仏教は、すべて時代不相応の教えであるとして批判。末法五濁の世の中を救う教えこそ三階教であり、これを末法唯一の仏教とする。法華経などは、第一階、第二階の聖者のための教えであって、法の優劣を判別できない第三階の人々にとっては無益である。第三階の人々には、普仏・普法を説く仏教でなければならないと言って、三階仏教・普法宗を弘めたのであった。
 三階教は広く一般大衆から支持を得て、深く浸透した。しかし開皇20(600)年、詔勅をもって禁断される。それは、三階教が激しく為政者を批判したためであった。以後、三階教は邪教であるとして、たびたび禁止され、唐代には絶滅する。このため、典籍の多くは後代に伝わらず、信行の著作もわずかに「三階仏法」四巻と、その他の断片が残っているに過ぎない。(1983.12.20)

25<道綽> 中国農民層に称名念仏を普及

 道綽(562-645)は、中国山西省太原の人で、初めは涅槃経の学者であった。ある時、曇鸞が建てた玄中寺に詣で、曇鸞の碑文に感じて浄土教に入ったという。「浄蓮房御書」に「綽禅師と申せし人の 涅槃経を二十四反(へん)かう(講)ぜしが・曇鸞法師の碑の文を見て 立所に涅槃経を捨て 観経に遷(うつ)りて後 此の法門を導(=善導)には教えて候なり」(p1432)とある。この時、道綽は48歳であった。
 それからの道綽は、専ら阿弥陀仏を念じ、称名は一日七万遍、観無量寿経を講ずること二百回に及んだと伝えられている。
 道綽の伝記中には、彼が小豆念仏を創始したことや、念珠を考案したことが記され、広く大衆の中に入って念仏を布教したありさまが描かれている。小豆念仏というのは、小豆で念仏の数を数えることであるが、この普及によって太原、晋陽、●(さんずいに文)水(ぶんすい)三県の七歳以上の老若男女、すべてが念仏するようになったという。ちなみに、上精進の者の豆の量は八、九十石、中精進の者は五十石、下精進の者でも二、三十石分を唱えたと伝えている。
 道綽が師と仰いだ曇鸞は、竜樹と世親の思想を利用して、自らの浄土教思想の権威付けと、体系化を図った思想家であった。これに対して道綽には、学匠ではなく、伝道・布教者としての性格が強く見受けられる。道綽は、現在が末法であるという意識と、今の人間は何によって救われるべきなのか、という思いを常に持っていた。それは、道綽と同時代、同地方に起こった信行の三階教から、大きな影響を受けたことと無関係ではない。
 世の中で最も苦しんでいる庶民救済を目指した道綽であった。しかし、結局、日蓮が「無間の大火を招かざらんや」(p181)と言うように、堕地獄の教えを弘通する過ちを犯してしまったのである。
 なお、後世、仏教を聖道門・浄土門の二門に分け、この世で悟りを開くのを聖道門・自力教と呼び、浄土に往生して悟りを開くのを浄土門・他力教と呼ぶようになったが、これは道綽の主著「安楽集」のなかで創唱されたものであった。道綽は、太宗の貞観19年、84歳で没したという。(1983.1.10)

26<善導> 自害を企て七日間苦しんで死す

 隋・煬帝(ようだい)の大業9年に生まれた善導(613-681)は、出家後、しばらくの間、法華経を修学していた。唐の貞観年中、善導が二十代の時、玄中寺の道綽に会って観無量寿経の講義を聴き、念仏者になったと伝えられている。
 日蓮は「念他無間地獄抄」のなかで、念仏が無間地獄の業因であることを明かし、善導の伝記を詳細に引用している。
 善導は、道綽に従って、釈尊一代の聖教を聖道門と浄土門に分け、法華経等の諸大乗経を聖道門と名付けて、これを自力の行として嫌った。聖道門を修行して成仏を願っても、百人中、一人か二人、あるいは千人中、三人か五人が得道するぐらいで、千人に一人も得道できない場合もあるとした。
 これに対して観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経の三部経を浄土門と名付け、これを修行して阿弥陀如来の本願をたのみ、極楽往生を願えば、十即十生、百即百生で、十人が十人、百人が百人、必ず往生できると主張した。
 善導は戒律を固く守り、精進潔斎して決して女人を見なかったという。また、三十年間不眠であると自讃し、酒肉や五辛を口にせず、未来の諸比丘も、このように行ずべしと定めていた。五辛とは辛味のある五種の青物で、韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・蒜(にんにく)・薑(はじかみ)の五種をいう。
 善導が諸国を教化した際には、男女貴賎を問わず、その徳を仰ぎ、称名念仏を一日に十万遍も行う者、あるいは高所から飛び降りたり、入水して自殺する者、身を焼く者等、熱狂的な信者が続出したという。
 法華経は、一切衆生皆成仏道の法である。善導はこれを千中無一の虚妄の法と謗った。この大謗法の結果、善導は物狂いとなり、寺の前の柳木に登って首をつり、死んだと伝えられている。
 一説によると、首をくくって柳の木から飛び降りた際、縄が切れたか、枝が折れたか、善導は大旱魃(かんばつ)で固くなった土の上に落ち、腰骨を打ち折って七日七夜の間苦しみ、わめき叫んで死んだという。永隆2年のことであった。
 日蓮は「善導と申す愚癡の法師がひろ(弘)めはじめて 自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば 自害の心出来(しゅったい)し候ぞ」(p1509)と、熱心な念仏信仰者には、自殺の願望が生ずると言っている。
 著作に「観経疏」「法事讃」「般舟讃」などがある。日本の法然は「観経疏」に基づいて浄土宗を開創した。これによって善導は、日本浄土教の高祖と呼ばれている。(1984.1.17)


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