日蓮の仏教人物史

中国編〔〕〔2〕〔〕〔〕〔〕〔

17<法雲> 法華経を講じつつ法華経を誹謗

 法雲(467-529)は、開善寺の智蔵、荘厳の僧旻(そうびん)とともに、梁の三大法師と呼ばれ、梁の武帝の厚い庇護を受けた。梁は西暦502年に興り、557年まで続くが、梁の武帝の仏教信仰は、中国歴代皇帝のなかでも第一とされている。
 天監3(504)年、武帝は光宅寺を創建、法雲を寺主と定める。同7(508)年、武帝は法雲を家僧とした。法雲は、幼少のころから英俊の誉れが高く、慧観、慧厳、僧柔、慧次といった当代有数の仏教者から、三論、成実、昆曇(びどん=アビダルマ)を学んでいた。
 日蓮は「報恩抄」の中で、法雲について詳述している。
 法雲は、釈尊一代の仏教を五つに分類した。そのなかから最も尊い経として、華厳・涅槃・法華の三経を選び出し「一切経の中には華厳経第一・大王のごとし 涅槃経第二・摂政関白のごとし 第三法華は公卿等のごとし 此れより已下(いか)は万民のごとし」(p298)とした。
 法雲が光宅寺で法華経を講じた時、天から花が降ってきたが、そのありさまは、ちょうど釈尊が法華経を説法した時、空から花が降った時のようだと称えられたという。
 天監5(506)年、梁には雨が降らず大旱魃となり、法雲は華光殿に招かれて雨を祈る。法雲が法華経薬草喩品の「其雨普等(ごうふとう)・四方倶下(くげ)」の二句を講ずると、天から甘雨が降り出したという。梁の武帝は、その功に対して僧正の位を贈り「諸天の帝釈につかえ 万民の国王を をそるるがごとく」(p同)仕えるのであった。
 法雲の主著は「法華経義記」である。このなかで法雲は「此の経いまだ碩然(せきねん)ならず」あるいは「異の方便」として「法華経はいまだ仏理をきわめざる経」であると書いている。後に出現した天台大師は、こうした法雲の教説を破折して「光宅寺の法雲法師は謗法によって地獄に堕(お)ちぬ」(p299)と断じた。
 法雲の弟子達は「眉をあげ眼をいからし 手をあげ拍子をたた」いて騒いだが、天台大師が「第一華厳・第二涅槃・第三法華と立てさせ給いける証文は何(いず)れの経ぞ 慥(たし)かに明かなる証文を出ださせ給え」とせめれば、彼等は色を失い、一言の返事もなかったという。また、妙楽大師は、法雲が天から花を降らしたことについて「感応斯(か)くの如きも 猶(なお)理に称(かな)わず」として「いまだ仏法をばしらず」(p485)と批判している。法雲は自ら法華経を講じ、その功力を示しながらも、結果的に法華経を誹謗したのであった。(1983.10.4)

18<曇鸞> 仏教を歪め浄土教の基礎作る1

 中国の浄土教は唐代に確立するが、その邪説の基礎をつくったのが曇鸞(476-542)である。
 山西省の人で、生家は五台山の近くであった。幼少のころ五台山に登り、多くの仏教遺跡を見て、それが機縁で出家したという。五台山は峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つであった。
 出家後、主に四論(中論・百論・十二門論・大智度論)を学び、四論の学匠として名を馳せたが、たまたま「大集経」を読み、その注解を企てる。その作業中に病疾を感じ、注解を完成するためには、まず自らが長寿を得てからでなければならないと思って、仙術を学ぶことを決意した。
 そのころ、南方の梁に道士・陶弘景(とうこうけい)がいたが、曇鸞は陶弘景を訪ねて入門する。やがて、不老長生の術を得た曇鸞は、帰路、洛陽で訳経僧・菩提流支に出会う。菩提流支は、北魏の宣武帝のもとで経典の翻訳に従事し「十地経論」「金剛般若経」「入楞伽経」「無量寿経論」等を訳出していた。
 曇鸞は菩提流支から「観無量寿経」を授けられて、翻然と悟るところがあったらしく、陶弘景からもらった仙術の経典十巻を焼き捨て、以後、浄土教を信奉するようになった。
 曇鸞の著には「浄土論(往生論)註」「讃阿弥陀仏偈」等があり、特に「浄土論註」には、曇鸞の教説の中心思想が示されている。この中で曇鸞は、仏道修行に難行道と易(い)行道があるとして、法華経が難行道であるのに対して、念仏が易行道であることを強調している。浄土に往生するためには、すべて阿弥陀仏の本願力に乗ずることが不可欠とする他力本願思想を説いた。また、悪人でも往生できると説くなど、後の浄土教が主張する種々の教説を展開している。
 「災難対治抄」には「往生論註」の「謹んで竜樹菩薩の十住昆婆沙を案ずるに云く 菩薩・阿昆跋致(あびばっち=不退の位)を求むるに二種の道有り 一には難行道 二には易行道なり、此の中に難行道とは即ち是れ聖道門なり 易行道とは即ち是れ浄土門なり」(p82)の文を引用して、難行道のなかに法華経を入れたことは、大いなる誤りであることが指摘されている。
 「立正安国論」では、曇鸞を「既に権に就(つ)いて実を忘れ 先に依って後を捨つ 未(いま)だ仏教の淵底(えんでい)を探(さぐ)らざる者なり」(p24)と、曇鸞の無知にもとづく教説の誤りが指摘されている。(1983.11.8)

19<真諦> 流浪続け経論訳した摂論宗の祖

 真諦(499-569)は、羅什、玄奘、不空とともに四大翻訳家と呼ばれている。西天竺の優禅尼(ウッジャイニー)国のバラモン出身で、諸学問に通達し、特に大乗仏教の奥義を深く学んでいた。
 大同12(546)年、梁の武帝の招きに応じ、漢訳すると約二万巻にもおよぶ梵文の経典を持参して、海路、広州に渡る。大清2(548)年、建康(南京)に到着して武帝に会い知遇を得たが、侯景の乱のために富春(浙江省)に赴き、そこで「十七地論」「大乗起信論」等を翻訳する。「十七地論」とは、弥勒の「瑜伽論」の部分訳である。
 承聖元(552)年、梁の元帝が即位すると、建康に帰って「金光明経」を訳出し、以後、予章、新安、臨川等、諸国を流浪した。真諦は、559年から561年の間に、三度にわたって故郷へ帰ろうとしたが果たさず、三度目は乗り出した船が風に吹き戻されて、再び広州に上陸した。広州では無著の「摂大乗論」を訳し「摂大乗論釈」を著している。また「倶舎論」の校訂にも力を注いでいる。
 陳の光大2(568)年、真諦は世を厭(いと)って自殺を企てたが、弟子にとめられ、翌年の大建元(569)年、病のために広州で没する。
 真諦の中国での生活は、戦乱に巻き込まれるなど、その生涯は流浪と不安のうちにあった。不遇な環境のもとではあったが「摂大乗論」と「倶舎論」を弘通することを生涯の目的とし、常に翻訳に従事して、経論を訳すごとに、その注釈書を著し、教説の意義を明らかにすることに情熱を注いでいる。
 真諦の経論訳出と注釈書の著述は、合わせて約八十部三百余巻あり、それは独力でなされたものであった。真諦の唯識説に関する翻訳と注釈は、後の唯識学を大きく展開させたが、摂論宗は真諦の訳出した経論によって興った宗派である。摂論宗はその後百年をへて、玄奘が伝えた法相宗の興起によって急速に力を失い、真諦の著作も散失した。
 真諦の門下には、慧●(りっしんべんに豈)(えがい)や、天台大師に律を教えた慧曠(えこう)がいる。
 「摂大乗論」には、心の作用として八つの識が説かれている。真諦は、第八識の阿黎耶(ありや)識の他に第九識の阿摩羅(あまら)識を立て、玄奘は第九識を第八識・阿頼耶(あらや)識の異名とした。
 日蓮は「守護国家論」で「摂論の識の八九……此等は皆 訳者人師の誤りなり」(p45)と述べ、訳者によって翻訳の相違があり、仏典の中にも翻訳上の誤りがあることを指摘している。(1983.11.15)

20<慧遠> 廃仏断行した北周・武帝を諫言

 「武王は慧遠法師と諍論し憲宗王は白居易を遠流し徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印をさす」(p357)「儒教・道教を以て釈教(=仏教)を制止せん日には 道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし」(p957)
 北周・武帝が大々的に廃仏を断行したのは、建徳3(574)年のことであった。北斉の承光元(577)年、武帝は北斉を滅ぼし、同時にその地でも廃仏を行う。
 当時、北斉には慧遠(523-592)の師である法上をはじめ、有力な仏教者が五百余人いたが、廃仏の行われるのを見てことごとく色を失い、武帝に諫言する者は一人もいなかったという。そのなかで慧遠だけが、武帝に対して強諌を行うのである。
 武帝に対面した慧遠は対論数回の後、声を励まして次のように言い放った。武帝は邪法をもって民衆を教化し、人々に苦業を植え付けているが、それでは民衆も武帝も、ともに阿鼻地獄へ堕ちるであろうと。
 他の仏教者は、武帝の権威を恐れぬ慧遠の諫言に冷や汗を流し、泣いて武帝に謝辞する者もあったと伝えられている。
 武帝にその諫言を入れられなかった慧遠は、やむなく汲郡の西山に身を隠す。以後三年間、法華経、維摩経等を読誦する日々を送るのである。
 武帝は廃仏の翌(578)年に亡くなり、宣帝が立つ。宣帝は翌大成元(579)年、復教の詔(みことのり)を出して仏教を再興した。581年、北周が隋によって倒されると、慧遠は隋の文帝に迎えられ都に帰る。文帝は勅を下して、慧遠を洛州の沙門都に任命した。後、慧遠は各地で講説し、開皇12(592)年、浄影寺で没する。
 慧遠は地論宗南道派に属し「大乗義章」「大般涅槃経義記」「十地経論義記」「法華疏」等を遺しているが、その解説は正確であり、後世から“釈義の高祖”と称されている。
 地論宗は、世親の「十地経論」を所依の論とする。「十地経論」は、菩薩の修行階位としての十地を詳説した「十地経」を解釈したものである。菩提流支、勒那摩提、仏陀扇多らが、北魏の永平元(508)年から四年間で訳出した。
 菩提流支の弟子・道寵(どうちょう)の系統を地論宗北道派、勒那摩提の弟子・慧光の系統を地論宗南道派という。地論宗は、後、摂論宗に影響を受け、華厳宗が成立するとその中に融没する。(1983.11.22)

21<南岳(慧思)> 毒殺の危機に屈せず悪師を強折

 南岳大師慧思(515-577)は、中国天台宗では竜樹、慧文につぐ第三祖とされ、天台大師に法を授けた師である。
 北魏の延昌4年、南予州(河南省)に生まれ、15歳で出家。以来十年間、もっぱら法華経を読誦していた。20歳の時、感ずるところあって四方に遊歴し、著名な仏教者を訪ねて禅観を修した。
 北斉の慧文に出会ってから、慧思の行学は飛躍的に進展する。ある時、自らの仏道修行の在り方を深く反省した慧思は、壁にもたれかかろうとして体を傾け、体が壁に着く寸前に法華三昧を証得したという。
 慧思は、単に坐して禅観を修するだけの仏教者ではなかった。慧思は、強悪の衆生に遭遇しながら彼等を破折しないのは、菩薩の仮面をつけた魔であるとまで主張し、正しい仏法を復興するために、勇気ある弘教を行った。そのため、東魏の武帝6(548)年、34歳の時、河南の●(なべぶたに兌)(えん)州で悪比丘と法論した際、毒をもられて死の危機に陥ったが、幸いにも蘇生した。
 北斉の天保4(553)年、郢(えい)州で講説した際も、再び毒を飲まされる。天保7(556)年には、悪師から迫害を蒙り、翌8年には、多くの悪論師が50日間、食を断って餓死させようとした。
 慧思の行動の根拠は法華経であり、そこに説かれる折伏行の思想に基づいていた。慧思は、常々「法華経の讎(あだ)を見て呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり 無間地獄の上に堕(お)ちん」(p1077)と言っていたという。
 光州大蘇山を拠点にして、およそ十四年の間、大衆のために法を説き続けた慧思の名声は、はるか遠くにまでおよび、弟子の数は日に日に増加した。天台大師は、慧思が大蘇山に入ってから六年目に入門したといわれている。
 慧思は、終生その徳を嫉まれ、悪比丘等から誹謗・中傷を受けた。慧思はこうした誹謗に対し“釈尊ですらなお流言を免れなかったではないか。自分は無徳の者であるから、誹謗されるのは当然である"と語っていたという。
 陳の光大2(568)年、初めて南岳に入り、晩年の十年を送る。この地名をとって南岳大師と呼ばれるのである。ここで六根清浄の果報を得たが、太建9年、63歳をもって寂したのであった。著書に「法華経安楽行義」「大乗止観法門」「諸法無諍三昧法門」「立誓願文」等がある。(1983.11.29)


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