日蓮の仏教人物史

中国編〔1〕〔〕〔〕〔〕〔〕〔

11<摩騰迦・竺法蘭> 中国に仏教を伝えたインド僧

 仏教は、インドから中国へ伝えられた。仏教を伝えたのは、大月氏(アフガニスタン地方)、安息(あんそく=イラン地方)、康居(こうきょ=サマルカンド地方)などの国の人々であった。
 これらの国の人々は西域地方、中国西方のタクラマカン砂漠に栄えた諸オアシス国家を経て中国に渡っていった。特に漢の武帝が西域を経営してからは、中央アジアから西域を通る通路は、東西交通の要路となり、貿易や旅行が頻繁に行われるようになった。インドと中国を往復した仏教者も、この陸路を利用したのである。
 この陸路には、南北二つの道があった。中国本土の西の関門・陽関を出て、敦煌の西北・楼蘭から南へ行き、タクラマカン砂漠の南側(崑崙山脈の北麓)を進んで、干●(門がまえに眞)(うてん=コータン)に達し、更に西北に進んで莎車(さしゃ=ヤルカンド)を経て疏勒(そろく=カシュガル)に至る道を南道と呼ぶ。
 北道は、敦煌から北へ進んで伊吾(ハミ)に至り、これより西に行って高昌(こうしょう=トルファン)に行き、天山山脈の南麓を通って亀茲(きじ=クチャ)、更に疏勒に達する道である。疏勒から西へ行けば大宛(だいえん=フェルガナ)、康居などに通じ、西南へ行けば葱嶺(そうれい=パミール)を越えて●(尸に炎にリ)賓(けいひん=ガンダーラ)に通じた。
 仏教がいつごろ中国に伝えられたかは、多くの伝説があって定かではない。西域との交通路が開けるに従って、次第に伝播してきたと考えられる。
 仏教伝来の伝説に、後漢の明帝(28-75)が、金人(像)を夢にみて西域に使いを出し、仏教を求めさせたという説がある。
 ある夜、明帝は、全身から光を放って宮廷に降りた金人を夢みて、西方に仏教があることを知った。そこで蔡●(りっしんべんに音)(さいいん)、王遵(おうじゅん)など十八人を西域に派遣して、仏教を求める。彼等は、その途中で白鳥に経像を積んできた摩騰迦と竺法蘭二人に出会い、ともに都へと帰る。明帝は大いに喜び、洛陽の門外に白馬寺を建立したという。
 「兵衛志殿女房御書」には「摩騰迦・竺法蘭の経を漢土に渡せしには十羅刹・化して白馬となり給う」(p1094)とあり、中国に仏教を伝えた初期の人々として摩騰迦と竺法蘭を記している。(1983.7.19)

12<道安> 中国仏教の基礎築いた訳経僧

 西暦147年、後漢の桓帝の建和元年に、安息国(パルティア)から安世高が洛陽に来た。次いで月氏国から支婁迦讖(しるかせん)が来朝し、この二人の手で大小乗経典が多数訳出された。ここから中国仏教は、実質的な始まりを見せる。
 後漢が滅びて、三国時代から西晋、五胡十六国の時代にいたるまでの間に、多くの訳経僧が渡来し「無量寿経」「阿弥陀経」「維摩経」「大般泥●(さんずいに亘)(はつないおん)経」「正法華経」等、後の中国仏教、更には日本仏教に大きな影響を与えた経典が翻訳された。
 五胡十六国の時代になって、仏教は急速な発展を遂げる。それは、十六国の各国が自国の文化向上のために、積極的に仏教を保護したからであった。
 なかでも、華北の大部分を統一した後趙(こうちょう)では、石勒(せきろく)・石虎(せっこ)の一族が、西域の仏教僧・仏図澄を重用。これの感化を受け、国政にも参画させるほどであった。また、五胡十六国中、その強大なこと第一といわれていた前秦にあって、国主の厚い帰依を受け、後の仏教史上にも大きな功績を残したのが釈道安(312-385)である。
 道安の功績のうち、最も大きいものとしてあげられるのが、経典目録の作成である。仏教経典は、当時、すでに多数が訳出されていたが、訳者や年代、真偽等の不明なものが多かった。道安はこれらの経典を整理して「綜理衆経(しゅうりしゅうきょう)目録」を作成する。この作成によって、初めて仏教が体系的に整理され、以後の仏教発展に大きく寄与することになった。
 このほかに「般若経」など、約二十二部の経典に註釈を施して、従来、意味が通じなかった点を解明し、経典解釈の上でも大きな貢献をなしている。後世、経典解釈の際に盛んに用いられた序分・正宗分・流通分の三分科法は、道安の案出によるとされている。
 中国では、伝統的に儒教と道教が勢力を持っていた。仏教は儒・道二道の思想を援用しながら弘通されていたのである。やがて、仏教が勢力を伸ばしていくとともに、儒・仏・道の三教が互いに対立の様相を示していく。三教の間で論争が行われることも多くなっていく。
 「佐渡御書」に「儒教・道教を以て釈教(=仏教)を制止せん日には道安法師……の如く王と論じて命を軽うすべし」(p957)とある。道安は、前秦の建元21(385)年、72歳で没するまで、大いに仏教弘通に努めたのであった。(1983.7.26)
 

13<鳩摩羅什> 不滅の光を放つ訳経の業績

 前秦のあとに興った後秦で、仏教はますます隆盛に向っていく。後秦時代の仏教の代表者は鳩摩羅什(344-409)である。羅什の父は、インドの国の宰相の地位にあった鳩摩羅炎、母は亀茲(きじ)国王の妹・耆婆(ぎば)であった。7歳で出家。母とともに西域諸国を巡って仏教を究め、外道との対論でも、羅什は一度も負けなかったという。
 20歳のころには、すでに羅什の名声が漢土にまでもおよび、前秦の符堅(ふけん)は、将・呂光を亀茲国(新疆ウィグル自治区周辺)に派遣、亀茲を攻めてまで羅什を迎えようとした。呂光が亀茲から羅什を連れて帰る途中、前秦が滅び、後秦が興る。そこで呂光は姑蔵に留まり、後凉を建てる。羅什はここで十五年の歳月を送った後、今度は後秦の姚興(ようこう)に招かれて長安に入るのである。
 羅什の仏教史上の功績は、何といっても経典の翻訳にあり、漢訳された経典の数々は、今も名訳として光を放っている。訳出された経典は七十四部三百八十四巻にもおよぶが、その主なものは「法華経」をはじめ「般若経」「維摩経」「阿弥陀経」「大智度論」「中論」「百論」「十二門論」「十住昆婆沙論」「成実論」などがある。
 従来、経典の翻訳は個人的になされていたが、羅什のそれは多人数で論議をつくし、一語一語に検討が加えられつつなされるなど、訳場の完備と訳語の適切・流暢は、従来の訳法を一変した。それに、国主の姚興は、羅什を国師として遇していたから、翻訳を国家の一大事業として援助したのであった。羅什の翻訳の場は、そのまま経典講読の場でもあった。羅什のもとには数千人の英俊が雲の如く集まり、なかでも僧肇(そうじょう)、僧叡、道生、道融などが最も傑出していた。
 こうして羅什は、長安で訳業に従事すること十二年、弘始15年、70歳で没する。羅什は、彼の法種が絶えることを恐れた姚興によって、心ならずも妻帯し、破成の身となっていた。羅什は常々、自らが死んだならば遺骸を焼くようにと命じていた。翻訳が正しければ、不浄の身は焼けても舌は焼けないといい、もし舌が焼けたら、経を捨てよと遺言したのである。羅什の死後、人々がその体を焼くと、舌は焼けずに残ったという。
 「撰時抄」には「総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳(くやく)・新訳に一百八十六人なり 羅什を除いては いづれの人人も●(りっしん偏に呉)(あやま)らざるはなし」(p268)と、羅什の訳に大きな信頼を寄せている。(1983.8.23)

14<道生> 闡提成仏を唱え蘇山に流される

 鳩摩羅什門下四傑の一人とうたわれた道生(?-434)は、東晋未における代表的仏教者であった。初め竺法汰について仏教を学び、次いで東晋の隆安年間、盧山に入って七年の間、慧遠のもとで広く経論の研さんに励んだ。慧遠とは、道安の高弟・盧山寺慧遠(334-416)のことである。
 ある時、道生は羅什が長安に入って、次々に経論を訳出していることを聞き、直ちに長安に赴いて羅什に師事する。それから約五年後の義煕(ぎき)5(409)年まで、師のもとで訳経に従事した。
 道生は当時の仏教者が、経典の文にとらわれるだけで、深い法理に達していないことを嘆き「二諦論」「仏性当有論」等を著して頓悟(とんご)成仏の義を立てた。頓悟とは漸悟(ぜんご)に対する言葉で、長期にわたる仏道修行を必要とせず、直ちに成仏の妙果を得ることをいう。ところが、当時の仏教界では、道生と同門の慧観をはじめ、すべてが漸悟成仏説をとっていたことから、道生の説は異端視されることになった。
 こうした仏教界の反対のなか道生は、今度は闡提(せんだい)成仏義を唱える。闡提とは梵語・イッチャンティカを音訳した一闡提迦の略で、断善根、信不具足と訳し、正法を信ぜず、永久に成仏できないとされる衆生のことをいう。道生の闡提成仏は、法顕(ほっけん)の翻訳した「泥●(さんずいに亘)(ないおん)経」から立てられたものであったが、これも当時の仏教界の定説を破る説であり、道生は以前にも増して激しく反対されたのである。
 道生は、ついに仏教界の極刑である擯斥(ひんせき)処分を受け、建康を追われて虎丘山(江蘇省蘇州付近)に入る。しかし、道生の考えがいかに論理明晰で、法理にかなったものであるかは、後に曇無讖(どんむしん)が訳した「涅槃経」によって証明される。「涅槃経」には、闡提成仏が説かれていたのである。そこで初めて人々は道生の説の正しさを知り、等しく驚嘆したという。
 こうした道生の思想は、後世の仏教界に大きな影響を及ばした。彼には「法華経義疏」「弁仏性義」などの著作がある。
 「如説修行抄」には「竺の道生は蘇山に流され……此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而(しか)も大難にあひ絵へり」(p501)とあり、道生を不軽菩薩や天台大師などとともに「如説修行の人」と称えている。道生は宋の元嘉11年、法席において亡くなったという。(1983.9.6)

15<達磨> 中国に渡り禅宗興した邪悪の師

 中国禅宗の祖といわれているのが菩提達磨(?-535)である。南天竺の国王の第三子として生まれ、出家して大乗の教えを学んでいた。達磨は、辺土において仏教が次第に衰えていくことを常に悲しんでいたが、ある時、意を決して中国に赴く。
 初め宋の国境・南越に達し、後、北へ向って北魏に入ったという。中国に入ったのは、梁の武帝の普通元(520)年とされ、嵩山(すうざん=河南省)の少林寺に住み、禅法を修して面壁(めんぺき)九年、すなわち壁に向かって座禅を組むこと九年間に及んだという。この間、達磨は一言をも発せず、遂には手足を失ってしまったといわれている。東魏の孝静帝の天平2年に没。
 達磨は、他を教える際に「楞伽(りょうが)経」を用いていた。後に禅宗の主な教義となった「不立文字(文字を立てず)」は「楞伽経」に説かれている「名字章句に著すること莫(なか)れ」の文や「一文不説」の文に基づく邪説である。
 天台大師の「摩訶止観」には、達磨の説を信じた人々が、臨終の際に後悔したということが明かされている。昔、●(業におおざと)洛(ぎようらく)の地において、大きく禅宗を興した達磨は、その名を天下にとどろかせた。達磨の居る所には、教えを求める人々が四方から集まり、達磨は雲のように仰がれていた。達磨が去るとき、千、百の人々が群をなして大変な騒ぎであった。ところが、こんな大騒ぎをしたけれども、達磨の教えには何の利益もないことがわかり、人々が臨終に至ったとき、何も悟れずに死んでいくのかと、皆、後悔したというのである。
 達磨は経によって仏法の理を悟り、しかも弟子の慧可に「楞伽経」を授けている。禅宗では「首楞厳(しゅりょうごん)経」「金剛般若経」等を用いるが、これは明らかに「不立文字」の教義に矛盾しており、自語相違である。「像法決疑経」には、法門の是非をわきまえずに禅をなす者は、正法を滅ぼすと説き、「涅槃経」には、仏の所説に随わない者があれば、これは魔の眷属であると説いている。
 日蓮は「達磨・慧可……此等の法師原(ばら)を邪悪の師と申し候なり」(p1341)と言い、禅宗が「不立文字」を主張することを「天魔の所為」(p1073)であると破折している。禅宗の「不立文字」が仏法破壊の邪説であり、魔の行為であることは明らかであろう。
 「法華不信の失(とが)に依(よ)って皆一同に後生は無間地獄に堕す可(ベ)し 早く邪見を翻(ひるがえ)し達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し」(p175)を銘記すべきである。(1983.9.13)

16<慧可> 達磨の教説受け継ぎ魔説を流す

 梁代に達磨によって伝えられた禅宗は、慧可(487-593)、僧(王へんに粲)●(そうさん)、道信、弘忍と伝わって行く。慧可は洛陽の香山にいて、参禅瞑想するすること八年であったが、北魏の正光年間、40歳の頃に達磨と出会う。
 伝説によると、慧可が初めて達磨を嵩山の少林寺に訪ねたのは、正光元(520)年12月9日であった。慧可は達磨に入室を請うたが、達磨はこれを許さず、慧可は雪の中で夜を明かす。朝になってもなお入室を拒否されたので、ついに慧可は自分の左ひじを切断して求道の心を表明した。そこで達磨に謁見を許された慧可は、大いに悟るところがあったという。
 以後、達磨に師事すること六年。仏法を学んで理解すること滞りなく、修行も飛躍的に進んだといわれている。達磨は慧可を後継者として、四巻の「楞伽経」から五巻の疏を作り、慧可に与えた。慧可は東魏の孝静帝の天平元(534)年、●(ぎょう=業におおざと)の都に出て盛んに布教し、禅風を鼓吹する。この年、北魏が東西に分かれ、東魏は●(ぎょう)を都と定めていた。
 ●(ぎょう)では、慧可の説に従わないものが多数あって、門下千人を誇る禅者・道恒などは、慧可の説法を魔語と称し、危害を加えようとまでしたのである。
 慧可が●(ぎょう)に出て四十一年目、北周の破仏が起こる。北魏が東西に分かれた後、東魏は北斉に、西魏は北周となった。北周の武帝は、富国強兵政策を推し進めるにあたり、道士・張賓(ちょうひん)と還俗僧・衛元嵩(えいげんすう)の提案を受けて破仏を行う。この破仏によって仏教は大打撃を受け、還俗する者、山に隠れる者、南地に逃げる者が続出する。慧可も揚子江近くの●(山へんに完)公山に隠れた。
 北周の武帝は、建徳6(577)年に北周を滅ぼし、北斉の地でも破仏を行う。翌年、武帝が亡くなり、長子の宣帝が立つが、宜帝は武帝とは逆に仏教興隆の政策をとった。西暦581年、北周の帝位を譲られた揚竪は隋を立て、ここに国家統一が成し遂げられるのである。 慧可は、隋・文帝(揚竪)の開皇13年、107歳で没したという。
 「兄弟抄」には「禅宗へすかしとをす悪友は達磨・慧可等是(これ)なり」(p1082)とある。達磨、慧可など禅の輩は、第六天の魔王がその身に入った「悪鬼入其身」であると言っている。(1983.9.27)


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