日蓮の仏教人物史

インド編〔〕〔2〕 

6<提婆> 竜樹を継承、破邪顕正に努める

 聖天、迦那提婆とも呼ばれ、南インドのバラモン出身、あるいはセイロンの王子であるといわれている。提婆(170〜270頃)は師・竜樹の教説をすべて継承し、生涯、破邪顕正を貫いた。
 ある時、提婆はコーサラの竜樹を訪ねる。竜樹が水を満たした鉢を弟子に持たせて提婆に示したところ、提婆はだまってその中に針を投じた。竜樹はそれを見て、鉢に水を満たしたのは、竜樹の知が広くいきわたり、およばぬところがないことを示さんがためであり、提婆がその中に針を投じたのは、その究極を窮めんとする意志を現したのだと言って、即座に提婆を弟子にしたという。
 竜樹の弟子となった提婆は、以後、積極的に邪義を破折していく。摩掲陀(マガダ)の華子城(パータリプトラ)に、論議に巧みな外道がいた。竜樹は、その外道が博学であることを考慮し、自らが直接、赴いて法論しようとしたところ、提婆はそれをとどめた。提婆は竜樹に外道の義を述べてもらい、それをいちいち破折して力を示し、竜樹の代わりに華子城へ向かう。提婆は、外道を見事に論破したという。
 南インドのある王は、熱心に邪道を信じていて、その国には一人の沙門(仏教僧)もいなかった。提婆は王を教化しようとして城兵の募集に応じ、警備の任に就く。王が提婆の人物を問うた時、提婆は、自分はすべてを知り尽くした一切智人であると答え、王の前でそれを試してもらいたいと申し出た。王は城中に高座を設けて諸方の論士を集め、提婆と論争させるが、皆、提婆に屈し、ことごとくその門下となったという。
 晩年は久しく那爛陀(ナーランダ)寺に住し、ついで南インドに帰り、羅●(目へんに侯)羅(羅●菩薩)に法を付属している。
 提婆は、破折した外道の怨みを買い、その仲間に殺されて生涯を閉じた。著書に「百論」「四百論」等があるが、いずれも竜樹の「中論」と同趣旨で、ここから「百論」は竜樹の「中論」「十二門論」とともに三論と呼ばれ、一群の書とみなされている。
 日蓮は「始(はじめ)には外道の家に入り 次には小乗経をきわめ 後には諸大乗経をもて諸小乗経を さんざんに破し失ひ給いき」(p261)「提婆は外道にころされ……」(p1000)等と述べ、門下に不惜身命の弘教を教示している。(1983.5.24)

7<無著> 弥勒に教えを受け大乗を弘める

 北インドの健駄羅(ガンダーラ)国のバラモンの家に生まれた。父を●(りっしん偏に喬)戸迦(きょうしか)、母を比隣持(びりんじ)という。兄弟が三人あり、無著(310〜390頃)は長兄で、弟に世親がいる。
 初め、伝統的保守的仏教の説一切有部に帰依して出家し、修行に励んだが、空の義を得ることができなかった。そのために悲観して自殺を企てた。その時、賓頭羅(びんずら)尊者が小乗空観を説くのを聞いて、初めて小乗の空の悟りを得ることができたという。しかし、それに満足できず、神通力で都率天(とそつてん)に赴いて弥勒菩薩に会い、大乗の空観を学ぶ。一心に思索した無著は、ついに大悟したという。この時、名を阿僧伽(アサンガ)と改めたといわれている。
 その後、しばしば都率天に昇って、弥勒菩薩から大乗の教理を受けたと伝えられ、この大乗の法理を人々に説いていった。無著は、華厳経などの諸大乗経や、弥勒の教説に通達して、多くの論書や註釈書を著している。主な著書に、般若経や竜樹の中論を研究して著した「順中論」。唯識説を組織した「摂大乗論」「大乗阿昆達磨集論」。弥勒の瑜伽論に基ついた「顕揚聖教論頌」「大荘厳論」等がある。
 日蓮は「仏滅後・九百年に無著菩薩と申す大論師 有(ましま)しき、夜は都率(とそつ)の内院にのぼり 弥勒菩薩に対面して・一代聖教の不審をひらき・昼は阿輸舎(あしゅしゃ=中インド)国にして法相の法門を弘め給う」(p198)と記している。「法相の法門」とは、唯識論のことである。
 無著が大乗の教えを受けた弥勒は、270〜350年ごろに生存した瑜伽唯識の祖で「瑜伽師地論」「大乗荘厳経論」「中辺分別論」等を著した論師のことである。弥勒は、都率の内院に止住するとされる弥勒菩薩と関係はないが、同名であるところから、無著の上天という伝説が作り出されたと思われる。
 瑜伽唯識派は、瑜伽(禅定)の実践によって、世の中の一切は“認識”することで成立していると教える学派であり、唯識説を大成したのが弟の世親である。(1983.5.31)

8<世親> 小乗から大乗に転じ唯識を大成

 大乗の論師・無著の弟。「太田入道殿御返事」には「世親菩薩は 本(もと)小乗の論師なり 五竺(ごじく=全インド)の大乗を止めんが為に五百部の小乗論を造(つく)る 後に無著菩薩に値(あ)い奉りて忽(たちまち)に邪見を翻(ひるが)えし 一時此の罪を滅せんが為に 著(=無著)に向って舌を切らんと欲す、著止(とど)めて云く 汝(なんじ)其の舌を以て大乗を讃歎せよと、親(=世親)忽に五百部の大乗論を造って小乗を破失す、又一の願を制立せり 我一生の間小乗を舌の上に置かじと」(p1010)と記されている。
 世親の名は、梵語・ヴァスバンドゥの訳で、天親ともいう。生存年代は320〜400年ごろといわれ「如来の滅後・九百年に出世」(p49)とされている。初め説一切有部(有部)に出家したが、後に経量部に学ぶ。そこで有部の教義に取捨すべきところがあると気付き、有部の論書「大昆婆沙(びばしゃ)論」を精査して小乗の教義を体系化し、その成果を「阿昆達磨(あびだるま)倶舎論」としてまとめた。
 ある時、世親の兄である無著は、兄弟の出生地・ガンダーラにいたが、世親が論書を作り、大乗は仏説にあらずと誹謗していることを知り一計を案ずる。無著は、弟が大乗の教えを破壊することを恐れたのであった。
 無著は使いを出して、自分の病が重いことを世親に伝えさせる。兄が重病であることを聞いた世親は、その使いとともに本国に帰り、無著に病気の原因をたずねる。無著は、病気の原因が世親の大乗誹謗にあると答え、弟がその罪によって、長く悪道に沈むことを憂うるゆえに、寿命も全うできないであろうと語る。
 世親は大いに驚き、また、無著が大乗の要義を説くのを聞いて、たちまちその法理を悟る。初めて小乗の欠点を知り、自らを深く反省した世親は、懺悔のために舌を切ろうとした。無著は舌を切っても罪は消えないから、今度はその舌で大乗を賛嘆し、弘通していくようにすすめた。
 以後、世親は次々と大乗の論書を著し、大乗の教えを弘通していく。主な著書には「唯識論」「唯識二十論J「摂大乗論釈」「弁中辺論」「仏性論」「法華論」「十地経論」「涅槃論」などがあり、兄・無著の唯識論を大成するとともに、法華経を大いに賛嘆して「自行ばかり」(p1022)ではあるが、法華経の題目を唱えていたという。(1983.6.7)

9<陳那・徳慧> 勝論、数論派論破した瑜伽派の論師

 <陳那>

 陳那は、南インドのアンドラの人で、生存年代については400〜480年、あるいは470〜530年等の諸説がある。弥勒を祖とする瑜伽(ゆが)行派に属し、インドの論理学である因明(いんみょう)を体系化した。
 伝説によれば、ある時、陳那の前に文殊菩薩が姿を現し、弥勒の「瑜伽師地論」を授けた。陳那は、これに基づいて因明を作るとともに、唯識説を大いに宣揚したという。また、一説には、初め外道を学んでいたが、後に小乗の犢子(とくし)部に出家して、次に世親の弟子となり、大小乗の法義を受けたという。
 インドには、陳那以前にも因明があったが、それは帰納法を中心とした論理学(古因明)であった。また、世親にも因明があったが、陳那はそれを改め、演繹的な新因明を確立したのである。
 御書に「●(牛へんに句)留(くる)外道は石となって八百年・陳那菩薩にせめられて水となりぬ」(p311)とある。●留外道とは勝論派(ヴァイシェーシカ)の●(さんずいに区の旧字)桜僧●(にん偏に去)(うるそうぎゃ=カーリカカーナンダ)のことで、釈尊の出生前に長生きの薬を飲み、八百年間、牛の形をした石になっていたが、陳那に邪義を攻められて、溶けてしまったといわれてる。
 また、当時、ナーランダー(那爛陀)寺にいた外道の論師は、論議に巧みで、仏教徒はだれも論争に勝つことが出来なかった。そこで陳那が請われて法論し、その邪説を打ち砕く。陳那はそれからも南インドの各地を回り、外道の諸論師を次々に破折していったという。
 主著には「集量(じゅりょう)論」「因明正理門論」等がある。

 <徳慧>

 南インドの出身で、陳那、安慧、護法、戒賢らとともに唯識十大論師の一人にあげられている。数論派(サーンキヤ)外道の破折に優れていた。
 「破良観等御書」には「徳慧菩薩か摩沓婆(まとうば)をつ(詰)めしがごとく」(p1294)とある。摩沓婆とは、数論派の一人で、内外の学に通じ、国王からも尊敬されていて領地までもらっていた。
 徳慧は、王に摩沓婆との法論を願いでる。摩沓婆は徳慧の質問に対して、即座に答えることができず、毎回、家に帰って一晩中その答えを考え、翌日、回答した。しかし、六日目にいたって、ついに血を吐いて死に、徳慧は摩沓婆の土地に一寺を建立。摩沓婆の弟子達は、何とか師の恥をそそごうとしたが、徳慧に勝つことが出来なかったという。
 徳慧の著として「随相論」「唯識三十頌釈」などがある。生存年代については400〜480年、または460〜530年などの説がある。(1983.6.14)

10<護法・清弁> 瑜伽行派と中観派の立場で論争

 <護法>

 南インドのドラビダ国の人。年若くして、王姫との婚礼の宴の最中に出家を決意する。以後、山寺に隠れ住み、仏法を修学した後、弘教に各地を回った。ある時、中インドに外道の論師がいて、邪説を唱え仏法を誹謗していた。護法は若年であったが、その外道と論戦を交え、これを屈服させる。後、ナーランダ寺に留まり、その名声は四方に高まったという。
 29歳の時、自らの寿命が長くないことを悟り、大菩提寺に隠棲して世親の唯識論を深く研鑚し、その意義を宣揚する。
 護法は、無著、世親の流れを受け継ぐ瑜伽唯識派に属していたが、同じころの人に、竜樹、提婆の流れを受け継ぐ中観派の清弁がいた。
 清弁は、護法との論争を求めてきたが、護法はこれを受けなかった。その後三年にして護法は亡くなる。齢32であった。生存年代は、530〜561年といわれている。
 著書に「大乗広百論釈論」「成唯識宝生論」「観所縁論釈」などがあり、弟子に戒賢(かいげん)がいる。

 <清弁>

 護法と同じく南インドに生まれた。出家後、三蔵に精通し、衆護を師として大乗経典と竜樹の論書を学ぶ。衆護がどんな人であったかは不明である。清弁は、五十以上の寺の主となって、大いに仏法を弘めたが、もっぱら竜樹の教説を述べていた。門下は千人といわれた。
 ある時、マガダ国の護法の名声を聞いて論争を挑む。しかし、護法が論争を好まなかったため、遂に両者は会見することなく終わったという。清弁は、その後九年をへて没する。生存年代は490〜570年と伝えられている。清弁は、竜樹の「中論」に註釈を加えて「般若燈論」を作り「大乗掌珍論」「中観心論」「中観宝燈論」などを著した。これらの論書の中で「十七地論者」あるいは「相応論師」の説をあげ、これを破折しているが、これは護法の説を指している。
 清弁などが属する中観派と、護法が属する瑜伽行派との論争は、これ以後も続けられていく。その主な論争点は、中観派が空を重視、瑜伽行派が有を重視するところから、空と有の論争、あるいは無と有の対論であった。中観派と瑜伽行派との論争は、インドにおいて決着がつかず、やがて中国に持ち込まれていくのである。
 「顕謗法抄」には「護法・清弁のあらそい・智光・戒賢の空中……」(p455)とある。(1983.7.5)


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