日蓮の仏教人物史

インド編〔1〕〔

1<迦葉・阿難> 釈尊の入滅後に経典を結集

 <迦葉>

 釈尊入滅後、経典の第一回結集が行われた。これを主宰したのが迦葉である。経典結集の目的は、釈尊の教えを正しく後世に伝えることにあった。迦葉によって招集された弟子・阿羅漢の数は、経典に五百人と記されている。
 迦葉は阿難を高座に登らせ、仏の教えを「如是我聞……」と暗誦させた。それを阿若●(りっしん偏に喬)陳如(あにゃきょうじんにょ)等の長老たちが認定・編集していくのである。同様に、律は優婆利(うばり)が誦出した。この経典結集の期間は、4月8日から7月15日まで「一夏九旬の間」(p942)、場所は王舎城郊外の七葉窟であった。
 迦葉は「摩かだい(竭提)国の尼くりだ(拘律陀)長者の子」(p1550)として生まれ、父母の死後、妻ととともに釈尊の弟子となった。釈尊の十大弟子の一人で、頭陀第一と称される。頭陀とは、心身を修練して衣・食・住に関する貪欲などを払い除く修行をいうが、迦葉は常に少欲知足であり、高潔な人格の人であった。法華経で光明如来という未来成仏の記別を受け、釈尊滅後は付法蔵の第一となった。
 日蓮は「迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたと(貴)き人なり」(同n)と述べ、迦葉の過去世について記している。
 迦葉は、過去世において麦飯を辟支(びゃくし)仏に供養した。迦葉の妻も、過去世に金の銭一枚を箔にして、毘婆尸(びばし)仏の像に張った。その功徳で、二人は大長者の夫妻になれたのだという。
 迦葉は、経典結集の後、法を阿難に付属し、自らは摩竭陀(まかだ)国の鷄足(けいそく)山にこもって、弥勒の出現を待ったという。

 <阿難>

 釈尊の十大弟子の一人で、多聞第一と称されている。釈尊の父・浄飯王の弟・斛飯(こくぼん)王の太子が阿難であるから、釈尊とは従弟の関係にあり、後に釈尊に反逆した提婆達多の弟であった。
 阿難は生まれながらに容姿端正で、顔は澄んだ満月の如く、眼は青蓮華の如く、その身は光浄にして明鏡の如くであったという。そのために、出家後も女性から誘惑されることが多く、そうした逸話は諸経典に見ることができる。なかでも阿難を慕った摩登女(まとうにょ)を出家に導いた話は有名である。
 釈尊の入滅までの二十年間、常随給仕し、身に影の添うように仕え、釈尊の教えを聞くことができた。この故に多聞第一と称される。
 阿難は「多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空(そら)に誦せし広学の智人」(p98)であったが、経典結集の際、いまだ阿羅漢果を得ていないことのほかに、釈尊入滅の際、水を差し上げなかったこと、釈尊の長寿を願わずに入滅を早からしめたこと、釈尊の衣をたたむ時に足で踏んだことなどの五つの罪を迦葉に指摘され、大いに反省する。その夜、眠ろうとして頭が枕に着く寸前に大悟し、経典結集に参加を許されたという。法華経で、山海慧自在通王仏の記別を受けている。(1983.4.12)

2<阿育王> 「法」根本に平和国家を建設

 「阿育大王と申せし王は この天の日のめぐらせ給う一閻浮提を大体しろしめされ候いし王なり」(p1481)
 阿育王は、インド史上、最大の領土を統治した王である。在位期間は紀元前268〜232年と推定されている。兄弟を殺害して王位につき、次々と周辺の国を征服、領土を広げていった。即位九年目、カリンガ国を征服した際、悲惨な戦争の様子を見て強く心を動かされたことを機に、自らの政治方針を一変させる。以後、阿育は政治の根底に仏教を置いた。
 それからの阿育王は、政治とは民衆の利益のために力を尽くすことであり、民衆に尽くすことは国家の義務であるとの信念に基づき、数々の業績を残す。それは自らの政治の理想を民衆に徹底させるために、石に刻んだ刻文に明らかである。
 刻文には、王の業績を人類史上、不滅のものとした「法」の統治についても述べている。刻文のなかで、王は仏教に基づく自らの熱烈な宗教的信念を吐露し、現世を超えて、しかも現世に実現されるべき「法」の理想を高らかに掲げた。王は、世界中の人間が守るべき普遍的な理法が存在することを確信し、これを「法」と呼んでいる。
 法の布施、法による結縁、法による親善ほど優れたものはなく、法の勝利こそ最上の勝利であるとして、法の勝利を目指すことを決心してから、王は再び征服戦争を起こさないことを誓う。そして自らの政治理想を諸外国にまでおよぼすことを願って、シリア、エジプト、マケドニア、セイロンなどの国に使節を派遣したのであった。
 阿育王の仏教に対する業績は、例えば当時、広く信仰を集めていたコーナーガマナの仏塔を増築して供養したことや、釈尊ゆかりの各地に立派なストゥーパ(塔)を建てたこと。釈等の生誕地・ルンビニーで法要を営み、その地の住民に減税を実施したこと。僧団への膨大な供養などがあげられる。南方仏教では、王が経典を結集したことを伝えている。こうした阿育王の仏教への責献は、その後の仏教発展の基礎を盤石なものとしたといえるであろう。
 阿育王については、過去世の因縁が伝えられている。「此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさ(幼)なき人あり、土の餅を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり」(p1544)とある。釈尊在世に徳勝と無勝という二人の子供がいた。二人は土で作った餅を釈尊に供養して、その功徳・善根によって百年後、阿育王と生まれたというのである。(1983.4.19)

3<馬鳴> 次々に外道を論破し仏法を宣揚

 馬鳴は中インド舎衛国の人。初め外道の法を習学し、智恵聡明にして論戦に巧みな人であった。舎衛国の仏教徒達は、皆、馬鳴に屈伏させられていたが、ある時、脇比丘が北天竺から来て馬鳴と対論、馬鳴はことごとく論破されてしまう。
 馬鳴は深く懺悔して、自らの頸(くび)をはねようとしたが、脇比丘はこれをとどめ「汝頭を切ること勿(なか)れ 其の頭と口とを以って大乗を讃歎せよ」(p1010)と教えるのである。以後、馬鳴は広く経・律・論の三蔵を修め、外道を次々と破折して仏法を宣揚、人々から尊敬を受けるようになった。
 当時勢力をもっていた外道が、次々と馬鳴によって打ち破られていった様子は「尼●(けん)が塔は数年が間・利生広大なりしかども 馬鳴菩薩の礼をうけて忽(たちまち)にくづれぬ、鬼弁婆羅門がとばり(帷)は 多年人を・たぼら(誑)かせしかども 阿●縛●沙(あすばくしゃ=馬鳴)菩薩にせめられて・やぶれぬ」(p311)と記されている。
 尼●とは、釈尊在世中の六師外道の一人で、苦行によって得道することを説くジャイナ教の開祖のことである。鬼弁婆羅門は、人と論争する時、帷で身を隠していたが、馬鳴との対論の際にその正体を見破られたという。
 「内房女房御返事」には、馬鳴が登場する輪陀(りんだ)王と白馬の説話が記されている(p1423)。
 ある国に輪陀王という王がいた。輪陀王は、白馬がいななく声を大変好み、その声を聞くと元気が出て、政治も正しく行うことができた。この白馬は、白鳥の姿を見るといななくのであった。
 ある時、白鳥が一斉に姿を消したため、白馬はいななきをやめる。王は元気を失って病に倒れ、やがて国も乱れて、民衆の苦しみは増していった。そこで王は、国中の外道と仏教徒に、白鳥を集めて白馬をいななかせることを命ずる。
 外道の祈祷では一羽の白鳥も現れなかったが、馬鳴が法華経で祈ったところ、たちまち白鳥が現れ、それに呼応して白馬が高らかにいなないた。王が力を取り戻すと、国は以前にも増して繁栄したという。
 2世紀の中頃、迦弐志加(カニシカ)王は兵を率いて中インドに攻め込んだ。その時、王は三億の金銭を要求した。馬鳴は「金銭三億がかわりとなり」(p297)、王に伴われて行ったが、迦弐志加王は馬鳴と出会うことによって、それまでの外道信仰をやめ、熱心な仏教徒になったという。
 諸経論には、インドに馬鳴という同名異人の論師があると伝えている。例えば「釈摩●●(しゃくまかえん)論」には、六人の馬鳴があるとして、その出現の時を仏の成道時、仏の入滅直後、滅後百年、同三百年、同六百年、同八百年としているが、日蓮は「馬鳴・竜樹菩薩等は仏の滅後・六百年・七百年等の大論師なり」(p326)と、滅後六百年説をとっている。(1983.4.26)

4<迦弐志加王> 馬鳴を師と仰ぎ仏教を外護

 「迦弐志加王は仏の滅後四百余年の王なり 健陀羅国(けんだらこく)を掌(たなごころ)のうちににぎれり、五百の阿羅漢を帰依して婆沙論二百巻をつくらしむ」(p1119)
 迦弐志加王は、西北インドのガンダーラ(健陀羅)を本領にして、ペシャワールに首都を置き、クシャーナ王朝の最盛期を築いた。
 王の即位年は諸説があって不明だが、二世紀半ばの144年説が有力である。仏教に帰依した年代も不明であるが、伝説によると、馬鳴との出会いが、王の仏教信奉を決定的にしたようである。
 ある時、王は中央インドに遠征軍を派遣して、パータリプトラを攻めた。同地の王は、戦いで人々が苦しむのを避けるため、和平交渉を行う。王は三億金の要求を出したが、同地の王に支払能力がなかったため、その代償として馬鳴を求めたのである。
 王は馬鳴を師と仰いで仏教を信奉し、大いに仏教を外護した。王が保護し援助した仏教は、伝統的保守的仏教であり、なかでも特に説一切有部といわれるものであった。
 王は多くの仏塔を作るなど、積極的に仏教に尽くしたが、その功績のなかで最も大きなものは、経典の結集である。王はカシミールの地で、脇比丘、世友を中心に、五百人の阿羅漢、五百人の菩薩、五百人の学者を集めて経典結集を行ったという。これが世にいう経典の第四結集である。「大昆婆沙論」は、その時に編纂されたといわれている。
 迦弐志加王のクシャーナ王朝は、その領土が中央アジアからインドにわたる広大なものであり、中国、ローマとも政治・経済・文化的な交流があった。また、領土内の西北地方に残っていたギリシャ文化の影響もあって、ガンダーラは東西文化融合の地となった。こうした東西文化融合の土壌から、仏像が作り始められる。ガンダーラでは、一世紀末から仏陀像の浮き彫りが現れ、二世紀半ばに作られた仏・菩薩の像は、かなりの数にのぼる。王が建てた寺に安置された仏舎利器のふたには、仏陀の像が刻まれ、王が作った貨幣には、釈尊像が刻まれている。
 以後、これまでの仏塔礼拝と仏像崇拝が結合し、仏像の崇拝が仏教信仰の中心となっていく。そして仏教は、仏像とともに西方のアフガニスタン、あるいは北方の中央アジアから中国へと発展していくことになった。仏教は、迦弐志加王以後、急速に諸国に広がっていくのである。(1983.5.3)

5<竜樹> 数多くの論書著し大乗を流通

 竜樹は広く大乗経典を解説し、数多くの論書を著して「天竺の大論師」(p521)、「千部の論師」(p965)といわれている。
 中国、日本で、古くから“八宗の祖”と呼ばれているように、ほとんどの宗派が、竜樹の著した論書を教義の裏付けとしている。竜樹の代表的な著作に「中論」「十二門論」「十住昆婆沙論」「宝行王正論」「釈摩訶衍(まかえん)論」などがあり「大智度論」も竜樹の著と伝えられてきた。
 生没年代は不明であるが「如来の滅後八百年に出世」(p49)あるいは「七百年等の大論師」(p326)とされる。最近の研究によると、150年から250年の生存説が有力である。
 伝説によると、竜樹は南インドのバラモンの出身で、生まれつき聡明であった。幼少のころ、バラモン達が誦する四つのベーダ(インド最古の宗教文献)を聞いてその文を暗誦し、意味も理解したという。
 天文、地理をはじめ、あらゆる学問に通じ、広く名声を博したが、ある時、友人三人と語らって、術師から得た隠身の術を使い、身を隠して王宮に忍び込み女色にふける。やがてそれが発覚して、友人三人は殺され、竜樹の身にも危険がおよんだ。竜樹はその時、初めて欲望が一切の苦の根本であることを悟ったという。その後、仏教に帰依して小乗を学んだが満足できず、更に経を求めて雪山に入る。そこで一人の老比丘から大乗経典を授けられる。しかし、その意味がわからなかったため、なおも諸国を周遊して余経を求めた。この間、外道と論争して次々と屈服させていったという。
 竜樹は、知らずしらずのうちに慢心を抱いていく。それをあわれんだ大竜菩薩は、竜樹を海中に連れて行って七宝の蔵を開き、深奥の経典、無量の妙法を授けるのである。
 南インドに帰った竜樹は、大いに仏教を弘めた。「竜樹菩薩は赤き旛(はた)を捧げ持ちて 七年十二年 王の門前に立てり」(p1371)とあるように、苦心の末、王と対面し、これを諌めて仏教に帰依させている。竜樹の著「勧誡王頌」は、仏法の立場から為政者の在り方を語った書簡である。
 晩年はキストナ河中流の黒峰山に住し、ナーガルジュナ・コンダで亡くなったという。
 真言密教では、竜樹を竜猛と訳し、これを開祖としているが、竜猛は紀元600年ごろの人であり「中論」等を著した竜樹とは別人とする説がある。(1983.5.17)


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