城を訪ねて 郷土いばらき 茨木城関連

茨木城を探る

松岡洲泉

 茨木城は、現在の大阪府茨木市上泉町・片桐町・本町・元町を含む城郭で梯郭式平城である。 建武2年(1335)、摂津職楠木正成が集いたと伝えられる(『茨木市史』)。楠木正成は、当時、摂津守であった。

 元弘3年(1333)6月1日、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、船上山を経て兵庫に逗留。同2日、ろ簿を進めようとしているところへ千早城から楠木正成が七千余騎を従えて迎えに参向した。天皇は御簾を高く巻きあげさせ、御前近くに正成を召され大義名分を明らかにして、速やかに朝権を回復したのは一にお前の忠戦の功であると御感賞になった。
 建武元年(1334)4月、諸国の賊軍が平定されて、いよいよ恩賞が行われることになり、まず大功のあった人々に領地を賜わることが発表された。
 足利尊氏には武蔵・常陸・下総。同直義には遠江。新田義貞に上野・播磨。同義顕に越後。同義助に駿河。楠木正成は摂津・河内。名和長年は因幡・伯耆であった(『太平記』)。

 なお、茨木城の築城者を、福富平左衛門とする説がある。福富平左衛門は、織田信長の直参であった。
 天正6年(1578)荒木村重が中国の毛利や石山本願寺と通じ、信長に背く。
 茨木城主中川清秀は、村重と従兄弟の関係であり、しばしば行動を共にしていたが、万一、清秀が村重に同調する事を慮った信長は、自らが元亀2年(1571)に焼き討ちした総持寺(茨木城の北東2キロ)を城砦化し、本陣を置いた。そして、茨木城を包囲するとともに、勧降使として福富平左衛門・古田佐介・下石彦右衛門・野々村三十郎を送り、清秀を帰順せしめた。この福富氏が、茨木城を築城したと考えることはできないであろう。

 楠木正成には“楠公七十七城”といわれるほどの築城があり、築城の神とまでいわれている。正成は摂津経営の拠点として、手始めに茨木・福井の両城を築いた。
 当時、建武新政の恩賞が、功労のあった一般将兵に対して公平を欠き、朝廷所属の公卿諸役人に多く分け与えられたことにより、その恩賞の不公平は再び反乱の原因となった。
足利尊氏の反逆は、建武新政を挫折せしめたが、正成は しばしば京の軍議に召し出された。そこで両城の整備どころではなかったのであった。
 建武3年(延元元年、1336)、正成は尊氏の大軍を湊川に迎え討ち戦死。

 翌建武4年(1337)、赤松範資(のりすけ)が茨木を領し在城。
 正平7年(文和元年、1352)佐々木秀詮の居城となる。次いで細川氏が足利幕府の摂津守護職となり、茨木を領し代々城代を置いた。文中3年(応安7年、1374)初代守護職細川右馬頭頼之。元中元年(明徳3年、1392)二代頼元。応永19年(1412)三代満元。応永23年(1416)四代右馬介持元。永享元年(1429)五代持之。文安2年(1445)六代勝元。文明5年(1473)七代九郎政元と続いた。
 鎌倉時代から、在地に勢力を延ばしつつあった土豪の台頭は著しく、足利幕府の御番衆となった茨木氏は、大安3年(1446)城代となる。

 近畿動乱がつづき、応仁の乱となり、応仁2年(1468)、安富元綱に属する野田泰忠が当城に拠る。文明14年(1482)摂津国人一揆が起こり、細川政元は同年7月、一揆に荷坦した茨木城を包囲攻撃し、これを落城せしめ、茨木氏の父子らを自刃させた。同年8月、守護代薬師寺元長の居城となる。永正4年(1507)同長忠が継ぎ、同年7月、同万徳丸が細川澄元と応じ、長忠を攻め落した。
 この頃、先に細川政元のため、一族の多くが自刃した茨木氏が再び勢力をもち、永正11年(1514)、茨木家俊が復帰在城することになった。

 大永6年(1526)、管領細川高国と同右京大夫晴元との両家争乱に、茨木城は高国方に属したが、晴元方の柳本弾正に降伏した。
 同7年(1527)、細川晴元が入代専護職となり、茨木城に茨木長隆を管領代として在城せしめた。

 天文14年(1545)、茨木左衛門尉が在城。晴元方の三好長慶に属した。後、長慶は、晴元に背く。天文17年(1548)、茨木佐渡守重朝が在城し、三好長慶に属した。

 永禄9年(1566)、摂津池田城主池田勝正が茨木城を攻める。
 永禄11年(1568)、織田信長の摂津平定が始まり、茨木城は信長に降る。茨木佐波守専は本領安堵となり信長に属した。
 元亀元年(1570)、一向一揆や、三好三人衆(三好日向守長禄・三好下野守政生・岩成主税友通)挙兵に際し、茨木城は信長方の前線を守った。

 元亀2年(1571)、茨木城の茨木佐渡守、高槻城の和田惟政、郡山城(現在の茨木市郡山浪速少年院が城跡)の郡平太夫宗弘の勢800騎は、荒木村重・中川清秀との勢2800騎と茨木の北方白井河原で戦う。惟政は清秀に、佐波守は村重に討たれ、宗弘も名馬金星号に跨(またが)り敵中に切り込んで討ち死した。勝に乗じた村重勢は、茨木・郡山両城を包囲し、これを攻撃した。茨木城の守将以下300人は、よく奪ったがついに落城、ここに茨木氏は滅亡した。
 村重は、その子新五郎村次を茨木城に在城せしめる。

 天正4年(1576)、第4次石山合戦において、茨木城は信長方の石山攻め包囲の拠点となった。

 天正5年(1577)、信長は中川清秀を茨木城に入城せしめ、7万5千石(一説に6万石)を与えた。清秀は、城郭の整備拡張を行ない、茨木城は東西220メートル、南北330メートルとなった。

 中川清秀は、摂津三田の稲田城で出生、長じて稲田城主を継がずに、摂津池田城主池田勝正の家臣なった。後、荒木村重らと池田二十一人衆の一人となり、村重が信長に背くまでは、しばしば行動を共にしていた。清秀は弟淵兵衛重継と共に豪勇を轟かせ、当時「戦場の真先駈ける日の丸は、赤は瀬兵衛、白は淵兵衝」と人々にうたわれた。中川清秀の茨木城主時代、有力家臣に松岡・田近・田能村・上島・野溝らがあって、十六騎武者と呼ばれた者の中に入江土佐守信定がいた。信定は住友家の祖といわれている。
 信長は帰順した清秀を信頼し、茨木に新庄・中島・中島・箕面・呉羽(くれは)を加増、併せて12万石となった。更に第十女鶴姫を清秀の息秀政に賜るのである。
鶴姫は輿入(こしい)れのとき、化粧料を持参したが、「姫領」現茨木市舟木町付近に地名が残っている。
 天正7年(1579)9月27日、信長は茨木城の鶴姫を訪問、饗応丁寧を極めたという。

 清秀は新たに新庄・中島に2城を集き、支城とした。新庄城は現大阪市東淀川区下新庄5丁目にあり、本丸跡に明教寺がある.中島城は同区中島町で、城跡は定かでない.

 天正8年(1580)6月5日、清秀は羽柴秀吉と兄弟分の契りを結ぶ。このころ、城下町整備。

 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こる。清秀は中国攻めの秀吉に信長・信忠の兇変を知らせる。直ちに秀吉より返書があり、それは「梅林寺文書」として残っている。清秀は中国より反転する秀吉を尼崎まで出迎え、軍議に参画した。山崎合戦には、茨木勢清秀の2500が先陣左翼。右翼は高槻勢高山右近の2000であった。共に戦功をあげる。

天正11年(1583)、秀吉が茨木城に滞在、清秀は厚く饗応した。秀吉は茨木城の堂々たる城郭と、三の丸の名泉「黒井の清水」で たてた茶の味を賞讃した。
 同年4月、賤ヶ岳の戦で清秀は弟淵兵衛重継と共に、柴田勝家方の佐久間玄蕃盛政と大岩山で戦い、兄弟共討ち死した。遭領は長子藤兵衛秀政が継いだ。

 天正13年(1585)8月、播州三木13万石に転封となる。
 茨木は秀吉の直轄地となり、安威城から来た安威摂津守五左衛門了佐(のりすけ)が代官として在城。
 文禄2年(1593)川尻肥前守秀長が代官として在城。秀長は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に参加、西軍に属して討ち死した。

 慶長6年(1601)、片桐東市正(とういちのかみ)且元、弟同主膳正貞隆(光長)の兄弟が入城。且元1万2千石(「豊国名士鑑」には6万石。他、「藩翰譜」「水月名鑑」等、石高に異説あり)。

 片桐氏は、六孫王経基の五男、相模介満快(みつよし)の四男、信濃年為公の五男、蔵人大夫為基が信濃国伊那郡片切の住人となり、片切氏と称す。その11代片切隅之助為頼が17歳のとき、信濃を去って近江国に移り、片桐氏と改める。その孫片桐肥後守直貞は、浅井長政に仕え、直貞の子が東市正且元〔通称助作、もと直盛)及び主膳正(しゅぜんのかみ)貞隆(元重)で、且元は初め羽柴秀吉に仕えて5百石。天正10年、秀吉に従い、備中に出陣。鎌倉山を攻めて功があり、山崎合戦で明智光近を討ち取って秀吉の危急を救うという大功をたてる。同11年賤ヶ岳の戦いでは柴田方の安彦弥五衛門・豊島(てしま)以兵衝・長井五良(ごろ)左衛門らを槍にて討ち取り、武名を揚げて新地5千石を賜り、賤ヶ岳の七本槍の一人と賞讃された。同13年、従五位・東市正、次いで姓豊臣を賜る。同18年小田原攻めに従って功があり、文禄元年(1592)兵200を率いて征韓軍に従い、功をたてた。

 且元は小出秀政と共に豊臣秀頼の傅(ふ)となり、大坂城に常勤のため、茨木城は弟貞隆が在城した。
 大坂城の且元は、大坂方と徳川家康の間に立ち、秀頼のために尽くすが、淀君や大野治長らからは、徳川に媚(こ)びて豊家をないがしろにする内通者・不忠者と常に罵(ののし)られ、家康からは、淀君や秀頼に偏重して、徳川を侮るものと叱責をされる。こうした身のおきどころがない状態のなかで、且元はただ豊家のために永く堪え忍び尽くした。

 慶長10年(1605)、家康は且元に4万石と駿府に邸館を与える。
 慶長12年(1607)、且元は茨木御坊(満照寺)が創建されるや、茨木城の一部を貸与した。早晩、大坂退城を予期し、その時の協同防衛的な城郭寺院を企図したものと考えられる。

 慶長19年(1614)、京都方広寺の鐘銘事件が起こり、家康の難題に且元は進退極まる。淀君からは忘恩の裏切者と罵倒され、そこで且元はついに大坂城を去り、茨木城に退く決意をした。
 同年10月1日、且元は300余人に甲冑(かっちゅう)に身を固めさせ、鉄砲に火縄をかけて、隊伍堂々、玉造口を出て渡川沿いに鳥飼の渡しをこえて茨木城に入る。
 大坂城では片桐の叛逆として、追撃をと茨木攻めの謀議をしたが、決まらず日を過すうち、茨木城には丹波保津の代官村上三右衛門が兵200余を引き連れて馳せ参ずるなど、近国から5騎10騎と武者が集まり、ことのほか優勢となった。大坂方は怖(おじ)けて茨木城攻めは沙汰止みとなる。

 まもなく大坂冬の陣が起こり、且元は家康の陣に入ってしばしば謀議に参画。後、命をうけて備前島に屯し、大坂城を包囲した。
 この戦において、難攻不落の大坂方は損害が軽く、関東方は多大の損害を受けて和議となる。
 翌元和元年(1615)、且元は駿府の邸館に移る(一説には病になり大和竜田に引きこもる)。茨木城は子出雲守孝利が在城し、3万5千石となった。

 同年5月、大境夏の陣後の6月、江戸幕府の一国一城令により、茨木城は廃城と決まった。
 且元は大坂落城を駿府で知り、遥か大坂城を拝し自刃したという(竜田で病死、京都または近江で没との異説あり)。
 同2年(1616)、茨木城には間宮三良右衛門が代官として在城し、同3年(1617)貞隆は大和小泉の陣屋に移り、1万6千4百石。以後、小泉藩として明治維新に至る。現在、陣屋建物・堀などが残り、片桐氏が在住されている.出雲守孝利は、大和竜田に移り、4万5千石。寛永15年(1638)8月1日、38歳で卒。子がなく、弟為元があとを継ぎ、1万石となったが、のち世継ぎがなくて家名は断絶した(貞隆・孝利の石高には異説あり)。
 なお、元和元年から且元・貞隆・孝利が大和に移るまで、志貴山の文珠院に寓居したとの説がある。

 同3年城破却。大手門は片桐家の江戸上屋敷に移築。門柱が太くて他に比類ないため、江戸の名物となり、「片桐に過ぎたるものが二つあり。城忠兵衛に門柱」とうたわれた。のち焼失。忠兵衛は江戸家老で5百石。器量稀な人物であったという。
 楼門は大和慈光院。搦手門と殿館脇門は茨木神社。東門は茨木妙徳寺にそれぞれ移築し残存している。
 元和4年(1618)江戸幕府より廃城検分使若松四郎兵衛・石井藤左衛門が来る。当地立会人は城忠兵衛。同4年、城跡を開き田畑にした。第一次開墾は1町4段1畝6歩。同9年第二次開墾は1町4段8畝18歩で、土塁・堀の一部を残し、水路・農道が造られた。三の丸石垣と井戸は現存している。

 昭和の初め頃まで、竹藪や雑木林の繁った幅約6メートル・高さ約3メートル・長さ約100メートルの土塁の一部が現在の片桐町南部に残り、水堀の一部も現在の本町西部と片桐町西部に残っていたが、現在では悉(ことごと)く開拓され住宅地になった。
 城ゆかりの地名として、天守台跡・城畠・本丸・殿町・城之町・片桐町・大手町・佐介屋敷・姫領・北の口・中土居などが残っていた。

 

『歴史研究』274号(新人物往来社 1983.12)所収

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