茨木洪水記

松岡洲泉

目次

  1. 西摂の初夏
  2. 出水
  3. 出動
  4. 家屋の浸水
  5. 惨禍の夜
  6. 巡察

郷土いばらき

(一)西摂の初夏

 昭和十年、百花咲さ乱れるうららかな春も過ぎ、やがて天日の光もようやく強く、チカチカと陽光が反射する屋根の上に、恰(あたか)も子等の前途を祝福するもののように、鯉のぼりが和やかな風をはらんで泳いでいる。
 茨木神社の森には、山蝉が鳴き出し、農家では田植えが始まりかけていた。時は時を生んで六月下旬、田圃(たんぼ)は緑新しい早苗(さなえ)でうずめられた。三島平野を潤す大小河川も、澄みきった水を静かに流していた。
 我が家も時季を失せず、数段歩の田植えを終り、疲れた手足を伸ばして只管(ひたすら)に、伸びよ稔れと祈るのみである。
 やがて月の瀬迫る二十八日、先日来の好天気も一段落をつげ、午後になって鱗雲は雨雲と変じ、北摂の連山は濃い藍色に塗られた無骨な姿で坐っている、東茨木を貫通する新京阪電車(現阪急電車)も、平日に無い轍(わだち)の音を轟々(ごうごう)とひびかせて走るのが聞こえた。
 「うむ。明日はどうやら雨だな」と、私はつぶやいた。
 雨ぐらいの予言は誰しもしようが、その雨量をだれが予測出来ようか。

(二)出水

 「ゴロゴロゴログワラー」
 夜半、夢うつつに雷鳴を聞いた。轟々と降る雨音の大きさに目覚めかけたが、数分にして再び睡魔の飼食となった。
 ものの小半時も過ぎたろうか。
 「ジャンジャンジャンジャン……」「ドンドンドンドン……」
 飛び起きて、寝衣のまま外へ飛び出す。近所の人も、皆、戸を開けて首を出している。警鐘は依然として鳴り続ける。
 『火事かな。火事のようだぞ。なぜなら、連続的に警鐘が鳴っている。茨木町内の火事なら、五つ連続して鳴らして少し間を道き、また五つ鳴らす。洪水なら四つ連続に鳴らして、少し間を置き、また四つ鳴らすはずだが、間を置かずに乱打している。とにかく見に行こう』
 傘をきて大町まで来た。暁の夢を破られた人々は、右往左往し、道路いっぱいの人出だ。警鐘台の上には、人が三、四人上がっていて、かわるがわる乱打している。東本願寺茨木別院の寺鐘も「ゴーンゴーン」と、雨ぶすまを破って聞こえる。この茨木本願寺の鐘が、ひとたび乱打されると、隣接五ケ村の全員が出動し、各々定まった場所に屯(たむろ)することが、往古からの習慣になっていると古老に聞いた。
 茨木警察署の門は開かれて、多数の署員が慌ただしく出入りし、いかにも非常の空気を現出している。西を見れば、茨木川の堤上に、大勢の人が一団となっているのを認めた。急坂を駆け上った時、思わず「アッ!」と、驚愕の声を禁ずることができなかった。見よ、数尺の濁水は、いまにも堤上を越さんばかりで、高橋(府道・茨木〜茨木停車場繚。茨木川に架せる幅員三間、全長約八間。昭和九年架橋した完工鉄橋)の底をなめている。人家の屋根より、水の方がはるかに高い。川上から流れてくる鳥小屋、畳、材木など、いろんなものが流れてきて橋にかかり、そこへ丸太が「ドシーン」と当たると、「ばりばりめりめり」と、木っ端微塵になるところは凄い。
 辺りを見れば、各区の出張場には町名入りの提灯が立てられ、どんどんと、かがり火がたかれて物々しい。まだ警戒に出ておらぬ区もあるらしい。並木の間を縫って走るたいまつが、人玉のようだ。消防隊も既に出動している。東の空がようやく白んできた。しかしまだ暗い。出動装束をするために、急いで帰った。

(三)出動

 すばやく身ごしらえをする。時はまだ午前4時にならず、雷は既に止んでいる。その日の扮装は、八尺白木綿の褌を縮め、同じく白木綿の腹巻。青年学校の制服・制帽に、黒小倉の脚絆に地下足袋と、足ごしらえを厳重に。肩に掛けたるは半合羽。「注意せよ」との親の言葉を半ば聞きながら、わが家から駆け出した。向かうは茨木川畔。兄も郷軍の服装で出動し、各部署に付く。
 混雑する中をかき分けて、忠魂碑前に釆た。「松岡」と呼ぶ声に振り返ると、青年校属陸軍歩兵○○指導員殿だ。
 「ハイ」「集まってきたものを集めておけ」
 その後、徐々に集まった者は十余名。○○指導員は「此所で各警戒する所を示すから、任務に付け。松岡は高橋西詰めより北へ五十米の地点」。
 直ちに駆け出し部署に付く。その他の者も、それぞれに散って行った。異常を認めたら、報告しなければならない。堤と水を見つめる。奔流を眺めていると、足元がふらふらと揺れるような気がする。もし足元が決壊し出したら逃げなければならない。枢けるに便なる姿勢をとる。気味の悪い事おびただしい。
 雨は少し勢いが落ちたが、水量は増している。警鐘はまだ鳴っている。遠(お)ち近(こ)ちで人が呼ぶ声がして、さながら職場のようだ。
 「松岡、ご苦労だが、そこは大丈夫だから六軒町橋へ釆てくれ。水が堤を越しているんだ」と言って走って行かれたのは、青年学校専任教師で陸軍予備役の○○指導員だ。今日は消防隊の制服で、消防隊員として出ておられる。かたわらの水防縄をつかんで駆けつけた。
 なるほど、水は堤の上を越している。けれど堤防が強いので感心した。この付近の堤は他所に比して厚い。そのおかげで保(も)ったのだ。もし此所が決壊すれば、養精校(現茨木市立養精中学校)はいっペんに倒れ、駅前は数尺の高水に襲われる。実に危険この上なしだ。すでに十余名の人が土俵を積んでいたので、協力して懸命に土俵を積んだ。
 「ようし、これで少しは保つだろう」と、三、四名だけ見張りで残る事にして、水防倉庫まで引き上げた。此の時、六軒町橋は、とっくに流失していた。
 校友三名と南の方へ行く。寺町橋まで来ると驚いた。寺町橋の一基の橋脚に、藁や材木が止まり、水をせき止めたので、西堤が水位と同じ位になった。約四十名ばかりの人が、土俵作りや橋脚にかかった物を取り除いている。もうすっかり夜が明けた。しかし、雨は止みそうにない。
 ここより南下して茨木中学校(現大阪府立茨木高校)の水泳場付近、ここは川幅が広いので、立派な大川だ。南仲之町の区旗が立っている。下へ行くと、新京阪(現阪急電車)の鉄橋だ。水が鉄橋に当たっているので、まるで鉄橋が浮いているように見える。どこかの個所が潰れたためか、電車は不通らしい。それでも注意して踏切を渡る。ここは茨木の最南端、下之町橋の東詰めである。ここの堤も危険線上をさまよっている。北から南へ下りる坂道が、数米ほどずって、雨がざあざあと砂を流す。警戒していても心細い限りだ。
 「出動の時間がものの三十分も遅かったら、取り返しのつかない事になるところだった。皆で、慌てて棒杭を打ち、土俵を積んだので、危ないながら保った」と、警戒中の人が話していた。
 「伝令!第二水防区南部、異常の有無を調査せられたし」
 初年次の者が、命令を伝えてきた。
 「うむ。別にたいした異常は無いと伝えてくれ」
 伝令は復唱して駆けて行った。
 「さあ、戻ることにしよう」と、校友と寺町橋まで引き返した。
 聞くところによると、川上約三十町、中河原付近で、右岸約五十米が決壊し、それより十町ほど下手、五日市付近で、右岸約十米が決壊したという。なるほど、決壊個所より水が出た関係で、茨木川の水が数尺下がり、茨木付近は決壊を免れたのだ。茨木付近の堤防も、多量の水と急流のために、各所に危険な個所が生じた。なかでも寺町橋東語は、急流のため、堤が削られて半分位の厚さになり、必死の力で防御していた。上で潰れた個所が出たので、ちょっと小康を保った。その他、危険になった個所は、下之町橋東詰め、上中條北、北市場の張場付近、大国主神社の後ろ等だった。

(四)家屋の浸水

 中河原より躍り出た濁流は、右岸堤に沿って数十町の田地をことごとく圧し、春日村畑田を先ず浮かばせた。更に南下して、東海道本線の堤にぶつかり、一部は線路に沿って南下、大部分は上中條、倍賀(へか)、駅前の各ガードより、猛烈な勢いで吹き出た。そのために、上中條、本郷、中條町、下中條町は水漬けになり、水は沢良宜(さわらぎ)方面に走る。これを先頭にどんどん水は増した。
 上中條の三つ目丸形のガードから吹き出した水は、小川橋の出口が小さいために水高が増し、家の間や養精校の庭から盛んな勢いで本道にあふれ、駅前の九分通りの家が漠水した。養精校の教室の窓にまで、水が届きそうである。上中條一円の田畑は海原と化し、苗は水面下、四、五尺の下にある。小川橋下より吹き出す水は凄く、小川橋は危険になったので、一般の通行を禁止した。
 雨はなかなか衰えず、肌着まで雨が通ってきた。寒くて仕方がない。なかには唇をふるわせている者もある。一時、わが家の様子を見るために走って帰った。家は今の所、異常がないので、立ったまま飯を食い、乾いた物と着替えた。若干時、息を入れて、また出動陣へ向かった。六軒町の交差点までくると、車を引いている初年次生(青年学校一年生)の分隊に会った。小学校へ天幕を借りにいくから、ついてきてくれというので行くことにした。天幕を車に積んで、私が梶持ちになった。四名の者が左右と後ろに付いて、駆け出した。数分にして忠魂碑前に来た。早速、天幕を組み立てて屯所を作ったところが、一陣の強風でひとたまりもなく飛ばされ、棒や支柱を数本折ってしまった。
 消防の人が「駅前で救出をしているから来てくれ」と言ってきた。土地の勝手の分かった者を先頭に濁流の中に入った。体が冷えていたためか、意外に水は温かい。深い所に注意しながら、救出する家の裏口より入った。第一に子供を運んだ。四つ位の女の子だ。実に困るのは、濁水のために溝と道路の見分けがつかないこと。そのうえ、毎秒数米の流れで、自分一人さえ歩きにくいのに、女の子を背負っているので、なかなか歩けない。水は太股の上まである。子どもが水を恐れて泣く。水を見せまいと着物を頭からかぶせると、すぐ払いのけてしまう。そして「お母ちゃんお母ちゃん」と泣き叫ぶのには、可愛そうで、さすがの私も難儀した。
 かろうじて高所に着き、警官殿にまかせてすぐに引き返した。さっきまで床の下にあった水は、もう床の上に上がっている。次はこの家の主婦だ。まだ若い。背負うわけにはいかないので、着物を持ち合わせて前進した。水が前から押してくるので、なかなか進めない。一人が転べばもろともだ。他から見たら珍景だったろう。
 いま歩いている所は空き地で、少し高いが、五十米ほど後は田地で、ここは少なくても五尺位の探さがある。前の家より吹き出す流れの急な所へくると、前へ進めなくなった。婦人の着物に水がぶつかって切れないためだ。男は下袴(ズボン)だから、水をがばがば切って進みやすい。着物だと非常に歩きにくい。しばらく立ち止まっていると、一人が応援に来てくれたので、ようやく前進することができた。
 救出が一段落したので、寺町橋東詰の防御に向かう。しばらくして、一人の人が慌ただしく駆けて来て叫んだ。
 「安威川十日市が潰れて、材木町筋が川になっているぞ」
 この言葉が終わるか終わらないうちに、数十名の人が帰ってしまった。私もおおいに驚き、高橋に引き返した。見よ!流出は時間の問題とされていた小川橋は既に流出し、道路が数間削り取られ、濁流は滝のようにざわざわと躍っている。水道鉄管、ガス鉄管は切断され、電柱は流出して、電信・電話ことごとく途絶し、駅前と茨木本町は全く分かたれてしまった。
 省線(国鉄=現JR)の汽車は数時間前より立ち往生し、時々、絹を裂くような汽笛を吹き鳴らしている。雨は少し小降りになっているが、水は少しも減っていない。十数名の警官隊が、ザクザクと駆け足で過ぎた。飛行機が一機、南空より飛んできた。私は慌てて帰宅した。案じながら帰ると、家にはまだ水が来ていなかった。しかし、万一の事を思い、食料、家財、その他を始末した。
 水の様子を見るべく梅林寺前までくると、茨木小学校前から殿町を貫き、米屋町へ通ずる道路は、北から南へ五寸位の川になっている。十日市の水が田中を潰し、濠●(こざと偏に皇)の鉄橋より吹き出して、破竹の勢いで茨木を襲ったのだ。それが新京阪の堤防にぶつかり、避溢橋が極めて狭隘であるために、濫水の疎通を妨げ、水はどんどん西へ押し寄せた。材木町は、道の上、四尺五寸以上の奔流になって、西へ流れている。実に茨木始まって以来の光景である。

(五)惨禍の夜

 日はようようにして、西に傾いた。大水が荒れた茨木にも、暗い夜がこようとしている。
 町庁(現茨木幼稚園)の様子を見るべく、本丸町へ行く。本丸町は高かったため、浸水を免れている。町庁の正面には、茨木町役場と記入した高張りが吊され、避難場所を記した紙が張ってある。内部には吏員がわずかしかいない。裏へ通ずると、国防婦人会の人たちが炊き出しをしている。米を洗うべく水道をひねると、水が出ない。仕方なく、小学絞の井戸まで行かなければならない。大さな籠に米がいっぱい入っているので、なかなか重たい。小学校の講堂は避難民でいっぱいだ。在郷軍人隊が、世話や警戒に当たられている。米を洗ってきて大釜へ入れる。青年学校の生徒も追々集まってきたので、にぎり飯を避難所へ配給すべく準備する。だいぶ辺りが暗くなってきた。いやな雨が、まだしとしとと降っている。
 配給も、なかなか忙しい。二名宛、餅箱に詰めたにぎり飯を抱えて行く。料理屋の出前持ちのようなあんばいだ。たくわんの匂いが、ぶ−んと鼻を突く。最初は突抜町へ行くことにした。平屋の人は全部、寺や学校等に集まっている。水は引いているが、まだ道の上をちゃらちゃら流れている。一時は五、六尺も来たのか、人家の壁や板に、水の形が鮮やかに残っている。
 まず区長宅を訪ふべく、表戸を開けようとしても開かない。仕方なく街路より二階を仰ぎ、大声で呼んでも出てこない。突抜の避難所、唯敬寺へ行く。本堂は避難者で詰まっている。子供などは、無邪気な顔をして寝ている。にぎり飯を世話役の人に波す。非常に喜んでくれた。外へ出ると、あたりは真っ暗になっていた。再び役場より、握り飯がいっぱい詰まった餅箱を抱えて出た。初年次の者がついてくることになった。今度は東外方面から熊野へと行く。各家に配るので手間が取れる。何処の家も床板だけで、畳はなく、二階住まいだ。表は猫の子一匹通らない。寂しい限りだ。
 忙しさに、食事が出来なかったので、腹が減った。幸い、にぎり飯を持っているので、上前をちょっとはねることにした。朝鮮米のにわか炊きだが、空腹だから意外にうまい。雨がさんさんと降る天下の公道で、大の男がにぎり飯をかぶるのは、非常時でなければ見られぬ図だ。
 熊野へ行くべく、高瀬川の昭和橋(東外之町より竹橋町へ至る町道に架した幅員一間半余、長さ二間ほどの完工橋)を渡る。この方面は電線に故障があるのか、真っ暗がりである。一尺程の濁り水が道路の上を流れている。一時は五尺にもなったのだが、半日余りでこれだけ滅ったのだ。馬鹿に静かだ。無人街のようだ。
 手提げランプを持っていないので、非常に危ない。ローソクやマッチを持っているが、雨で役に立たない。私が先に進み、初年次の者が三歩はど後ろから続く。
 「両側は田だぞ。まっすぐ歩くんだ。倒れぬように気を付けろ」
 「何だか気味が悪いです」
 「弱音を吐くな。男じゃないか」
 「……」
 「もうすぐだ。五十米ほどだ」
 がばがばと水の中を歩く。ごみが流れてきて足にかかる。やがて目的地に着き、一軒の家の表を開けようとすると、鍵がかかっているのか開かない。一人の者は向かいの表に立って「今晩は、今晩は」と呼んでいる。階下は水が浸していて居られないので、皆、二階に居る。少々呼んでも、雨の音に消されて聞こえないらしい。用心が悪いから、錠が下ろしてある。そこで、面倒なりと道のまん中に突っ立ち、大声で呼ばわった。
 「役場より、夜食の炊さ出しを持って来ましたから、表を開けてください」
 数回呼ぶと、あちらも、こちらも、ガラガラと戸を開けてくれた。たいてい婦人だ。だいたいここら辺の主人は、外に勤める人だから、洪水のために交通機関が不通で、帰ってこられない人もあるらしい。なかには、恥ずかしがってか、遠慮してか、握り飯を少ししか取らない人もあった。余れば持って帰らなければならない。
 「今度は、いつ持ってこられるか分からないから、沢山取って下さい」と、無理に多く渡す。
 「さっき、親類から沢山持ってきてくれましたので、足らない方へ少しでも多く回してください」と言われた方もあった。
どの家も、地上五、六尺まで、水のために壁が落ちている。不安な顔つきで「もう水がこないでしょうか」と、尋ねる人もあった。私は「もう大丈夫ですよ」と、気を強くするように言った。実に気の毒に思った。
 配給も、一段落を告げた。各方面に行っていた校友も、皆、帰ってきた。「二階へ上がって、ひと眠りしよう」と、皆を促して上がったが、役場の二階は誰も居ない。時間は午後十一時を過ぎている。床の上へ濡れたまま寝ころぶ。雨のため、上衣も帽子もずくずくだ。不快でなかなか眠られない。誰か梯子段を上がってきた。初年次の○○生だ。
 「お−い。雑魚寝しているのを見に行こうか」。二、三人の者が「うん。行こう行こう」「何処だ」「小学校だ。面白いぞ。記念のために見に行こう」
 長上として、黙っているわけにはいかんので「用の無い所へ行かずに、体を休めておけ。明朝は朝飯を配らんならんから、忙しいぞ」「それでは止めるであります。では、巡回してきます」「うむ。早く帰ってこい」
 私は苦笑した。これは止める訳にはいかない。
 小学絞は、郷軍隊が警戒にあたられている。しばらくすると、停電して、真っ暗になった。不思議に西の窓が明るい。窓を開けると、東海道本線の復旧工事の灯だ。早くも国鉄は、復旧工事を急いでいるのだ。数個の電球が設けられて、あかあかと付近を照らしている。
 私は、城之町の夜警に出るべく、城之町に帰ってきた。当局から、各家から一名出ることが命じられている。父が少し体の調子が悪いので、私が出ることになっていた。
 第一班、第二班と時間帯が決められていて、第一班は午後八時から十二時まで。第二班は、十二時から午前四時までになっている。行くと、ちょうど交替の時間だった。総員二十名ほど、屯は梅林寺本門の下だ。茶や酒が出ている。眠りを防ぐために、よもやまの話が出た。蚊が喰うのでちょっと難儀だった。
 談話する内に、定刻の四時がきたので、後始末をして解散した。あたりはもう白んできて、早い家からは、雨戸を開く音が聞こえる。私は家には帰らず、農業者の生命線たる田の様子を見るべく急いだ。田に来てみれば、水がまだ数尺あるので、はっきり分からない。やむなく町庁へ行く。校友は上衣の濡れたのを乾かすために、火鉢を囲んでいた。
皆、寝足らずで、眼を赤くしている。しかし元気だ。なかには机にもたれて、わずかな眠りをむさぼっている者もある。役場の吏員は、だれもいない。夜はすっかり明けたが、雲は、まだ降らし足らないのか、空にはびこって地上を見おろしている。
 遠望すべく、水道タンクに昇った。見よ!南東方はるか見渡せば、安威川(あいがわ)に区切られた三島、玉島の平野は湖水と化し、森や部落が浮島のように浮かんでいる。玉島方面は、なかなか水が引かないそうだ。天井まで浸水した家も多くあるとのことである。眼下を見れば、災禍の中心地・茨木町は不気味な沈黙を保っている。朝食を取るべく、降りた。

(六)巡察

 咋二十九日、早朝より猛活動で、一睡もしなかったので、ようやく心身共に若干の疲労を覚えた。朝食後、宅で休眠した。
 「難波の上田さんが来られた」と、起こされた。見舞いに来てくれたのだ。忙しい中をわざわざ訪ねてくれた誠心を感謝した。しかし、家はたいした被害を受けなかったが、取り込み中で、お愛想が出来なかったのを遺憾に思う。
 京阪間三島の中心地・茨木町も自然の暴威に荒らされて、みじめな姿をさらしている。淵上の堤防より西を見れば、茨木駅から茨木川鉄橋間の東海道本線は、各所で堤防が崩れ、軌条がだらりと垂れている。一番悲惨なのは田畑で、植え付けを終わったばかりの早苗は、はとんど倒され、ひどいのになると土砂に溺れている。田の中には芥や大木、家財等があり、小川の決壊個所の下は、田地が変じて淵になり、濁った水が潰所から流出し、田が川になっている。
 竹橋の方面。京阪電車新京阪線築堤式高架に水がせき止まり、深い所は十尺以上の水に浸かった所だ。水高はすっかり減っているが、まだ馬街道の上をちゃらちゃらと水が走っている。人家では、濡れた家財を洗ったり、床下の水を排出している。この付近の惨状は、実に目を当てられない。新京阪電車も、まだ単線運転や徒歩の連絡をしている。線路の上は、通行人でつながっている。富田へ行く道が傷んで通れないので、線路上を通っているのだ。
 この付近一帯の畑地は、あるいは土砂がたまって丘となり、あるいは土が流されて池となり、あるいは電柱が田の中に倒れ、変化甚だしく、これらの田は、元通りになるには二、三年、もしくは四、五年もかかるであろう。自然の力に驚かされる。この惨状は、拙ない筆によって、とても表せない。
 はるか彼方に大阪府と記入した貨物自動車が走っている。上には人夫がいっぱい乗っている。早くも復旧の幕は開かれた。
(了)

☆茨木町内の水害被害状況(昭和十年六月二十九日)

<堤防>
決壊五個所延長百六十間
破損十個所延長百五十間
<道路>
破損六個所延長六百米
<家屋浸水>
床上八百六十五軒
床下六百七軒
<橋梁>
流出三個所
<耕地被害面積>
田八十五町
畑二畝

※ 「茨木洪水記」は、昭和10(1935)年6月29日、茨木を襲った水害の体験を綴ったものである。当時、筆者は弱冠十八歳であった。この内の一部分が抜粋されて「わがまち茨木(水利編)」(茨木市教育委員会編)に掲載されている。なお、第一章「西摂の初夏」および「前書」「浸水図」の一部が散失欠落している。

郷土いばらき