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茨木城址

紙面 (14989byte) 茨木城は、いまの大字茨木の中央にあった。東西250m、南北350mの城で、建武年間、楠木正成が築城してから、元和3年、江戸幕府が取りこわして以来、殆ど市街地と化し、いまは二ノ丸、本丸、天守台跡の地名が残っている。昭和の初め頃まで、茨木川左岸沿いに、血の池という堀の一部があったが、埋め立てられた。当時の大手門といわれる茨木神社東門や、妙徳寺の表門がある。梅林寺には屋根瓦が保管されている。

 この城の沿革については前々号で述べたので、有名な城主、中川清秀と片桐且元について少し記そう。

 清秀は戦国時代、中河原(市内福井)の豪族であり、伊丹の荒木村重の武将で、勇猛の名が高かった。天正6年、茨木城主となった。その後、村重は信長に反抗して討たれるが、その時、清秀は村重をはなれて信長方についていた。時勢を見るのに敏で、天下も狙っていた。
 天正10年、信長が本能寺で明智光秀に討たれたとき、この急変をいち早く、中国の毛利と戦っていた羽柴秀吉に知らせたのが清秀で、秀吉の返書が梅林寺文書として、いまも残っている。
 秀吉は直ちに毛利と和睦して反転し、夜を日についで東に上ってきたが、1万余の本隊が尼崎にきたとき、清秀の茨木隊は高山右近の高槻隊と、秀吉の前衛隊と合して5千。上牧付近に進出して、午下りに明智勢と衝突し、夕刻までに殆ど勝敗は決まり、清秀は大きな手柄を立てた。
 翌、天正11年、豊臣秀吉が柴田勝家と賤ヶ岳で戦ったとき、清秀は最前線の大岩山に陣していたが、怒涛の如く南下する北陸勢に敗れ、勝家方の佐久間盛政に討たれる。その子中川秀成が茨木城主になるが、間もなく播州三木に移され、更に竹田城に移され明治に及んだ。名曲「荒城の月」は、この中川家の家の城を偲び作られた。代々江戸への参勤の途中には、必ず中河原の旧地領に降り立ち、休息した。

 片桐且元は信州片切で生まれ、幼名を助作といい、秀吉の小姓として仕え槍が得意であった。賤ヶ岳の戦には、世にいう「七本槍」の一人として奮戦し、その功によって1万2千石を加増され、従五位に叙された。慶長6年、茨木城主となり、秀吉の子、秀頼になってからは、豊臣家の執権職としてよく秀頼を補佐し、財政、総務を総理して大阪城に在城した。
 秀吉なきあと、徳川家康は豊臣をつぶそうとして圧迫したが、且元は両家の間にあってしばしば駿府(静岡)におもむき、平和裡に治まるよう尽くしたが、家康は無理難題を次々もち出した。且元は豊臣家安泰のため、秀頼に三策を献じた。

  一、秀頼、大阪を去って外に移ること。
  一、江戸に参勤すること。
  一、淀君を江戸の客たらしむること。

 どれも秀頼としては承服できにくいものばかりだが、家康とて老齢のこと、長くはないから、しばらく耐え忍んで時節を待つようすすめた。淀君をとり巻く大野治長等の奸臣は、かえって且元は徳川に通ずるものとして迫害を加えたので、もはや大坂退城の他なしとして、慶長19年10月1日払暁、3百余人 隊伍堂々と玉造口より退出して茨木に向う。淀川堤まで来たとき、木村重成が馬で追いつき、涙を流して引き止めるが、我等の配慮も、もはや策がつきて、退身やむなし、後は呉れぐれも頼むといい、軍師として紀州九度山に閉居する真田幸村を迎えるように頼み、鳥飼の渡しをこえて茨木城に入った。
 且元が退出した後、大坂方は混乱し、市中の治安も乱れ、百鬼夜行のかたちとなった。チャンス到来とばかり、家康は関東10万余の大軍を出して大坂を攻め、一旦和睦したが、元和元年5月、遂に大坂は落城。この時且元は駿府にいて、病が重くなっていたが、落城を知り、はるか大坂に向かって自刃した。年六十三才であった。

 

(ツバサ工業(株) 社内報『ツバサパイロット』1964.8.10)

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