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安威川

 会社の前を流れる安威川(あいがわ)は、京都府亀岡の竜ケ尾山附近に源を発し、蜿蜒(えんえん)50粁、茨木市を北から南へ貫き、下音羽川、茨木川、勝尾寺川、山田川の各支流を合して神崎川にそそぐ。当市は昔からこの川に恩恵を受け、またこの川の災害に悩まされてきた。現在では広範囲の潅漑用水であり、市民の飲料水である。上水道の大半を、この川の伏流水を水源にしているからである。

 安威付近から、数粁上流にかけては山峡となって、激流巨岩をかみ、ときには淵となり、景勝の地となっている。近年、竜仙峡と名づけられて脚光を浴びてきた。ここを訪れる人も年々増加して、夏の日曜日ともなれば、生保(しょうぼ)から府県墳にかけて、何百という色とりどりのキャンプテントが並び、花が咲いたようである。車作(くるまづくり)付近では、毎年五万尾以上の鮎が放流されて、釣天狗の漁場としても有名である。この車作は、もと新穂村といったが、およそ1300年前の天智天皇のころ、ここで御所車を作ったので、車作の地名が生まれたという。

 車作大橋の上流、下音羽川の合流点を経て、本流を更に上って右に入ると、竜仙峡に出る。小さいながら一つの風情をそえている。竜仙峡の西側に、標高510米の竜王山がある。頂上から展望すると、大阪平野を眼下に、鈴鹿、生駒、金剛の連山が望まれ、眺めはまた格別である。山頂近く、八大竜王を祠る八大竜宮があり、宝池寺もある。この山は別名深山(みやま)ともよばれ、大昔、大陀が住んでいた。この大蛇の通った処は、幅1米も草木がなぎ倒されていて、それをを見た村人があったという伝説を聞いたことがある。

 山峡を流れる川は安威を経て平野に出る。安威郷は古代、中臣藍連(なかとみのあいのむらじ)と言う豪族が住んでいたといわれ、応仁の頃、安威五左エ門了佐の安威城があった。今も安威口より左手を見ると、その輪郭が残っている。これより東南にかけての平野を藍野(あいの)ともいう。安威川の名もこれに因んだものである。

 太田(おおだ)から西へ上野にかけて、白井河原の古戦場がある。約400年前の元亀2年、茨木城主佐波守と高槻城主和田惟政(これまさ)は、織田信長に反抗して白井河原で戦死をとげている。この河原は、数十年前まで蛍合戦が行われた。
 初夏の夜の一定時間に、蛍の大集団が両方からぶつかり合う。敗れた蛍が流れに落ちて、さながら銀河の如くであったそうで、昔の名勝図会に残っている。蛍合戦はこの虫の習性であるが、此の辺の蛍は、一寸蛍といって特に大きかった。筆者は子供の頃、昔の戦死者の怨霊が、後世に至っても蛍となって、なお戦い続けるのだと、古老に語られたものであるが、今では土地が開発され、農薬等の関係もあり、蛍も絶滅に近い。

 平野に出た川は川床が高く、堤防ももろかったので、度々、洪水の歴史がある。近いのでは昭和9年に十日市、二階堂、中河原、畑田付近の堤防がきれ、多数の人家や田畑が流失した。中条や茨木地区の大半が覆水して、栄町や高瀬町附近では、2米に達した箇所もあった。当時の新聞は、通信交通途絶して、茨木町は全滅に瀕していると報じた。水が阪急電車の築堤に止められたので、町の血気の一団が、つるはしや、スコップをもって線路を崩しかけたが、阪急側が阻止した事件もあつた。この水害は、茨木川を田中で安威川に合流する大改修の機運を高め、昭和12年に実現した。

 茨木の発展が高槻や吹田に遅れたのは、しばしばの水害が大きな原因となっている。今後、観光開発と治水や汚染対策は、大きな問題として取り上げるべきである。

(ツバサ工業(株) 社内報『ツバサパイロット』1964.7.2)

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