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鎌足の墓争い

【安威村】

 

 大化(645〜)の初期、改新の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、神祇伯(じんぎはく)を辞して阿為(あい)に退居した。
 このあたりは古くから中臣藍連(あいのむらじ)や太田連(おおたのむらじ)といった豪族がおり、一説には神武天皇の妃、五十鈴(いすず)姫が茨木の溝咋(みぞくい)氏から出ているという。この地方と大和(やまと)とは深い交流があったものと考えられる。
 鎌足は死後 阿為の西北の丘に葬(ほうむ)られたが、唐(とう)に留学していた長子(ちょうし)・僧定慧(じょうえ)が天武天皇のころ(672〜85)に帰朝(きちょう)してきた。そして父・鎌足が阿為に葬られているのを知り、これを大和(やまと)の多武峰(とうのみね)に移そうと、大和から阿為に使者を出した。使者は村の代表者と会って遺骸(いがい)を渡してほしいと交渉したが、村の人々は、村に縁の深い鎌足の遺骸を手放したくなかったので、引渡しを強く拒(こば)んだ。使者は手ぶらで大和に帰るわけにはいかないため、その後も阿為に留(とど)まり、再三にわたって交渉を重ねたが、どうしても村方の承諾(しょうだく)が得られなかった。仕方なく使者は遺骸全体の引取りを諦(あきら)めて、遺骸の頭の部分だけを引き渡してほしいと申し入れた。村方も使者の執拗(しつよう)な交渉に うんざりしていたので、皆で相談の上、しぶしぶ承知することになった。使者は これで面目が立ったとばかり さっそく頭を持ち帰り、定慧は父を多武峰に葬ることができた。
 後年、多武峰が世に知られるようになり、胴体が葬られている阿為のほうは鎌足古廟(こびょう)として名をとどめるのみとなった。阿為の人々は大いに残念がったという。古廟は現在 大職冠(たいしょっかん)神社となっている。

 

『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会 1984)
に所収、補訂


【注釈】

中臣鎌足(614-69):幼名(ようめい)を鎌子(かまこ)といい、のち鎌足。臨終(りんじゅう)に大職冠という高い位を授(さず)けられ、藤原の姓を贈られた。大化改新を断行した中心人物。大和の談山(だんざん)神社に祭られる。鎌足の神像は国に変事があると破裂し、墓所(ぼしょ)は鳴動(めいどう)したという。

阿為:現在の茨木市西阿為一丁目。

 

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