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深夜に鳴く一番鶏

田中村

 

 昔、菅原道真(1)は藤原時平の謀略によって京の都を追われ、九州に送られることになった。時平は、讒言が ばれるのをおそれて、道真を一日も早く九州に送ってしまいたかった。そこで、九州へ送る途中に泊まる村では一番鶏(2)を早く鳴かせるよう警護の者に言いつけた。持ち歩く時計のない この頃の定めで、一番鶏が鳴けば出発することになっていたのである。

 京の都を出た道真の一行は、山城国の長岡で一休みののち西へ進み、三島路の藍野から道を南に進んだ。田中村に着いたところで日暮れになり、ここで泊まることになった。さっそく警護の役人は村の家々を廻り、二番鶏を何とかして早く鳴かすよう触れた。もし言いつけに従わぬ者があれば厳しいお咎めがあると威した。しかし鶏は勝手に鳴くもので、いくら早く鳴いてくれと頼んでも そ知らぬ顔をしている。村人達は それぞれ鶏小屋に付きっきりになって、何とか鳴かすことが出来ないかと工夫した。
 ある人は灯をともして ご馳走をやったり、ある人は背中をなでてみたり、また雄鶏の お尻をつねってみるなどしたが、どの鶏も いっこうに鳴かなかった。ひどい人は鶏の嘴を開けて酒を流しこんだが、努力もむなしく、酒に弱い鶏はフラフラになって そのまま寝てしまうのであった。途方に暮れた村人の中には、その夜のうちに村を逃げ出す者まであった。

 この村に、「おまつ」という ばばさまが一人で住んでいた。ばばさまは三羽の雌鶏と一羽の雄鶏を可愛がって飼っていた。その夜、鶏に「早く鳴け」と言ってみたが、鶏達は肩をすり寄せて「コッココッコ」と小さい声で鳴くだけで、藁の上に座っている。ばばさまは ふと、鶏小屋に炬燵を入れてやろうと思いたち、自分が使っていた土製の炬燵に炭火を入れて鶏達の真ん中に置き、家に入って休んでいた。

 夜は更けて、どこかで犬の遠吠が聞こえる。明け方には まだ だいぶ間があった。ところが夜八ツ丑の時、突然 ばばさまの鶏小屋から「コカコッコー」と元気な鶏鳴が二声三声聞こえてきた。炬燵のぬくみで 鶏の勘が狂ったのである。にわかに村中が ざわつきだし、村人は みな起き出して街道をのぞいていた。
 しばらくすると、「お立ちー」と言う役人の声がして、行列が南へ向いて進みだした。茨木村から大坂街道に入り、尼崎の大物の浦から便船に乗って九州に行くのである。村人達は街道に出て見送りをした。そして 昨夜の こわい役人達を思いだし、肩を寄せあってホッとした。
 酒を飲まされた鶏は かわいそうに二日酔となり、鳴く事も餌を食べるのも忘れて昼頃まで寝ていたということであった。

 その後、宿泊跡に神社が建てられた。いまの天満宮である。

 

『わがまち茨木−民話・伝説編』(茨木市教育委員会 1984)
に所収、補訂

(c) gss042@1134.com 1986,91,99


【注釈】

  1. 菅原道真(845-903):平安初期の学者・政治家。祭られている天満天神は学問の神様として知られる。菅原氏は代々学問に従事しており、道真も儒学を学び、文章生(もんじょうしょう)から文章博士となった。宇多天皇は藤原氏と血縁関係がないため、藤原氏の勢力を押さえて天皇親政を実現しようと図って道真を登用した。道真は蔵人頭(くらんどのかみ)から参議、大納言と昇進し、天皇の側近として活躍、遣唐使の廃止を献言するなど和風文化の充実を図った。宇多天皇を継いだ醍醐天皇にも重用され、898年には藤原時平とともに内覧に任じられて国政を執り、翌年 時平は左大臣、道真は右大臣となった。道真の めざましい昇進は 藤原氏ら一部貴族層の反感を買い、901年(延喜元年)、時平らの策謀で九州の太宰府に権帥(ごんのそつ)として左遷された。死後、延長元年(923)に罪を取り消され、のち正一位太政大臣を贈られ、北野神社に祭られた。『日本三大実録』『類聚国史』『古今集』等などを編纂。

  2. 一番鶏:暁闇の頃、夜明けを告げて鳴く。同一の雄鶏が約一時間後に鳴くのを二番鶏という。ごく稀に深夜に鳴くことがあり、昔はこれを「夜鳴鳥」と言って凶変の前兆とされ、その鶏を殺して食う慣習があった。

  3. 田中村:私事ではあるが、筆者にとって 田中は ゆかりの地である。著者の父は田中で生まれ育った。筆者自身も昭和16年(1941)、田中にあった(株)阪神鉄工所茨木工場(のち阪神内燃機、その後ツバサ工業(株)となる)に入社し、35年間勤務した。

     平安時代(781〜)の初め、坂上田村麻呂が この地に侵攻してきた。集落の人々は住みついた土地を守るため反抗したが捕らわれ、河原につくった穴に投げ込まれたあげく、イバラや灌木を積まれて焼き殺されたという。
     当地方は近畿動乱に巻き込まれ、しばしば兵火に焼かれたが、松岡・久角・岡部氏ら地方豪族が台頭した。元禄9年に松岡嘉達が天満宮に鳥居を寄進していることからも土豪の邸館が構えられていたと考えられる。のち、その南(いまの上泉町)には茨木城の重臣や家臣団の屋敷がおかれた。
     これより先、建武年間(1334-7)より地方の中心的存在になりつつあった茨木郷が城下町として発達し、天正5年(1577)中川清秀が茨木城主となり12万石を領してから物資の集散地となった。田中は茨木と山間部の車作・安元・庄保・安威や中国街道の太田・耳原・五日市等に通ずる街道となり、物資を卸しに行く人や買い求めに行く人々が通行した。田中村で一息つく山間部の人々は「山家のデコボウ」と呼ばれた。
     大正年代には芝居小屋があり、日暮れともなれば料亭の中から粋な三味線の音が街道に流れていた。
     明治の中期に日本羽二重の工場がおかれ、高煙突が遠いところからも見えた。北陸あたりからきた たくさんの織姫が雇われ、土地の若者とのロマンスが芽生えることもあり、織姫哀史もあった。のち工場は閉鎖され、狐狸の住みかになった。
     昭和10年頃、田中集落と安威川の中間に新道がつけられ、旧街道の通行は少なくなった。
     昭和13年、閉鎖されていた工場は阪神鉄工所として再び稼働し、第二次大戦中は海軍の軍需工場となった。そのため、昭和20年になると田中の上空にも米軍機がしばしば飛来し、工場に機銃掃射が加えられたが、大きな被害もなく終戦となった。
     現在は新興住宅や工場も建てられ、力強い発展を続けている。

     茨木川は、大昔、安威川に自然に合流していたといわれる。中世に元茨木川のように人工で流れを変えたものが、さらに昭和年代に再び安威川に合流した。

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